『光る君へ』貴族社会から武士社会への兆し、「刀伊の入寇」から日本を救った武者たちはなぜ報われなかったのか
■ 藤原隆家のもとで活躍した武士「平為賢」とは? 双寿丸が主人とする平為賢(たいらのためかた)は、藤原隆家のもとで活躍した武士として実在しており、「府の止むこと無き武者」と称されるほど武勇に優れていたという。 ドラマでは、刀伊の入寇で武功を立てたことで、為賢は肥前国を賜り、双寿丸もついていくことになった。双寿丸はまひろに「肥前に行くことになった」と告げている。 さらに「殿が肥前守になられるゆえ、俺もついていく」と説明し、まひろが「平為賢様が肥前守になられるの?」と聞き、双寿丸が「そうだ」と答えるやりとりがあった。 実際の為賢については、肥前守を務めたかどうかも含めて、その経歴はよく分かっていない。ただ、為賢の一族が肥前に定着し、肥前伊佐氏のルーツになったのではないかとされている。 双寿丸はこれから来る武家社会を予見するかのように、まひろにこう言っている。 「敵を殺すことで、民を守るのが武者なのだ」 双寿丸の人生を変えたのが為賢ならば、為賢の人生を切り開いたのは隆家である。今回の放送では、隆家が異民族を撃退した皆をねぎらいながら、こんなことを言う場面があった。 「武力を備えることを軽んじてはならぬということを思い知らされた。これからは武者たちが国司となり、各国の要となり働けるよう、この先も朝廷に働きかけ続ける」 やがて訪れる貴族社会から武家社会への転換。最終回でもその兆しが見られるのだろうか。
■ 大宰府の功労者に褒美がろくに与えられなかったワケ ドラマでは、隆家が先のセリフに続けて「こたびのことは許せ」と頭を下げている。何のことかというと、異民族を追い払うという大仕事を成し遂げたにもかかわらず、朝廷からはろくに恩賞が出なかったのである。 信じがたいことだが、実際にもそうだったようだ。大宰府から11人の勲功者が報告されたが、「勲功がある者に賞を与える」という朝廷からの命が下ったのは4月18日付のこと。戦闘自体は4月13日に終わっているため、行賞を行うべきではないというのだ。 いくらなんでもひどい理屈のように思うが、そんな意見を述べたのは藤原公任(きんとう)と藤原行成(ゆきなり)だった。『小右記』によると、実資はこう反論したという。 「勅符の到不を謂ふべからず。仮令、賞の事を募らずと雖も、勲功有る者に至りては、賞を賜ふに何事か有らん」 (天皇の勅が届いていたかどうかを考慮してはならない。たとえ、その時点では賞を募っていなかったとしても、勲功がある者については、賞を賜うのに何の支障があるというのだろうか) 実資らしい正論である。彼らの奮闘が報われるべきだと実資が考えたのは、今後のことも見据えてのことである。こうも続けている。 「若し賞進すること無くんば、向後の事、士を進むること無かるべきか」 (もし賞を与えることがなければ、今後の有事が起きた際に奮闘する者はいなくなるのではないか) これにはぐうの音も出なかったであろう。藤原斉信(ただのぶ)が同調したことで、公任と行成をはじめ、ほかの者も同意したのだという。 ところが、結局はうやむやにされてしまったのだろう。残っている史料から褒美を得たことが分かっているのは、たった2人だけ。しかも、その2人に隆家は含まれていない。家臣の勲功を優先したのか、隆家は11人の勲功者に自らを含めなかった。それでも、朝廷の方から賞を与えることを提案してもよいくらいだが、完全にスルーされることとなった。 ドラマでも同じような展開が繰り広げられたが、公任と行成が褒美を与えるのに反対した背景が分かりやすく演出されていた。もっとも行成については、もともと真面目で融通が利かないキャラなので、厳密さにこだわったのは理解できる。 では、公任はなぜ恩賞を拒んだのか。ドラマでは道長に「隆家は、お前の敵ではなかったのか! ゆえに俺は陣定でもあいつをかばわなかった。お前のために!」と声を荒らげて、さらにこう胸中を明かした。 「伊周(これちか)亡き後、お前にとって次の脅威は隆家だ。いっそのこと、戦いで死んでおればよかったのだ。大宰府でこれ以上力を付けぬよう、俺はお前のためにあいつを認めなかった」 これに対して道長は「国家の一大事にあっては隆家をどうこう言う前に、起きたことの重大性を考えるべきである」と諭した上で、公卿たちのありように批判さえした。 「何が起き、どう対処したのか。このたびの公卿のありようは、あまりにも緩み切っており、あきれ果てた」 公任は「俺たちをそのように見ておったのか」と失望。道長とすれ違う気持ちが描かれて、見応えがあった。 実際に襲撃を受けていない京都からすれば、大宰府の危機など遠い話だったことは確かだろう。後に貴族社会を終焉へと向かわせる、公卿たちの緊張感のない態度がよく表現されていたように思う。