定年後「月15万円」稼ぐ生活…70代男性のキャリア「ひとつの答え」
年収は300万円以下、本当に稼ぐべきは月10万円、50代で仕事の意義を見失う、60代管理職はごく少数、70歳男性の就業率は45%――。 【写真】意外と知らない、日本経済「10の大変化」とは… 10万部突破のベストセラー『ほんとうの定年後』では、多数の統計データや事例から知られざる「定年後の実態」を明らかにしている。
同僚、患者とのやり取りを楽しむ
森永衛さんは高校の普通科を卒業した後、中堅の印刷会社に入社。入社から数年は工場内の発送業務を担当する。具体的には、印刷物をそれぞれの納入先に振り分け、伝票を切って、その印刷物を配送するトラックの荷台までフォークリフトで運び、積載の手伝いをするといったようなことまで行っていたという。しばらく発送の仕事をしていたが、じきに工場全体の印刷の采配をする仕事に変わっていった。当時の工場長が森永さんの仕事ぶりを高く評価、30代半ば頃には当時の工場長が本社で常務に昇格し、それに合わせて森永さんも本社勤務への辞令が下ることになる。 「発送という所から今度、用紙係っていうのをやらされたんですよ。工場の用紙係っていうのは出版社が用意した紙をいついつ印刷するから工場に入れてくれとか、紙の手配っていうのをやったんですよね。そういうなかでそれまで工場全体で無駄がいっぱいあったんですが、その無駄を自分が省いたことによって工場の経費が年間で1000万円か2000万円ぐらい浮いたっていうのがあって。工場長があいつなかなかやるなって認めてくれたんですよね」 本社に異動した後に、配属になった部署は購買。建屋から紙やインクなどの物資を調達するのが主な仕事で、自社ビルや自社工場のメンテナンスを行うなど総務関係の仕事も担当した。40歳頃には課長職に昇格し、部下をもって仕事も順調にこなす。 「その当時は右肩上がりでしたね。どんどんやる気が出て仕事も楽しくて生き生きしていました」 しかし、好事魔多しで50歳を過ぎたときに癌が発覚する。初期のフェーズだったため事なきを得たものの、仕事は2ヵ月ほど休職することになった。仕事のほうも病気になるちょうど直前に、本社から工場に異動となる。 「それがちょうどタイミングがよくて、そのまま本社にいたら自分がいくら仕事で酒飲みたくても飲めないわけ。本社だとそういう場に出ないわけにいかなかったかもしれないけども、工場勤務になったんでそういう場はだいぶ減らすことができたんですよね」 工場に戻った後は管理課長に就任。工場内の業者の出入りの管理や、建屋から機械などのメンテナンスが所管で、本社時代にやった仕事の延長で病気があるなか、すんなりと働き続けることができた。まもなくして、会社の規定により58歳で役職定年となり、平社員に戻った。 「仕事はすぐには変わんなかったけども、後任の課長が来てからの仕事は気楽でしたね。課長にもう全部自分の今までやっていたことを任してね。その分給与は大きく下がりましたけどね。工場だから8時始まりの5時終わりだけども、もう60歳からはトラブルがあったとき以外は5時にはぴたっと帰っていましたね。65歳までは週3日、自分の好きな日に行って働けて、それと同じパターンで、継続して働きました。その合間に自分の好きなことができました」 会社での継続雇用を終えた後、森永さんが選んだ仕事はデイサービスの送迎ドライバーの仕事。正運転手と2人態勢で運転業務を行っており、週5日勤務で日当は8000円ほど。日々の仕事は、まずは8時に出勤し、そこから10時30分までの間、患者の自宅から施設への送迎を行う。昼は自宅に戻って好きなことをした後、午後は15時に施設に赴き、患者を自宅まで送迎し、夕方の5時には仕事を上がる。同僚である正運転手や患者とのやり取りも日々の楽しみの一つ。仕事を通じて、地域住民とのつながりもできた。 「この仕事はネットでたまたま見つけたんですよ。退職後、どういう仕事があるのかなと思ってネットの求人を見ていたら、うちのすぐ近所の施設がでてきたもんで、ここなら歩いて5分もかかんないでいいなと思って。送迎の際に地域の方々と話すのが楽しいですね。一緒にやっている正運転手の人も結構いい人で。その人は私よりちょっと下の年代の人なんだけど、土曜日にはパソコン教室の先生やってます。自分がやっている仕事でもたまにパソコンいじる場面があるんですけど、隣でパソコンのやり方を教えてくれるんですよね」 現在の働き方が、森永さんにとってはちょうどいいのだという。現役時代のように仕事でステップアップしてより高みを目指していくという考えもあまりない。 「さすがに加齢とともに体力がすごい落ちてます。物覚えは悪くなるし、手先も昔はすごい自信があったんだけど、今はだいぶ不器用になってきました。病気になってから徐々に回復していったんだけども、あれ、もうこれ以上いかないなと思って。これはやっぱり加齢のせいでもうここまでしか戻んないんだって、気づいたのがいくつだったかな。60歳過ぎのときに思ったんですよね」 「もう仕事で責任を負うのは嫌ですね。今も補助運転手だから気楽にできるっていうか。これ正運転手だったら自分は働いてないですね。だから一緒に働いている正運転手の人にもいつも言っているんだけど、あなたが辞めたら私、一緒に辞めますからねって。私、正運転手はもうやりませんって。勤めている施設のほうにも言ってあります」 森永さんには仕事のほかにも熱中できる趣味がある。魚の調理が好きで、釣りに遠征行くことが趣味であることから、自分の自由に使える時間があることは何より大切だという。収入に関しては、年金が一月当たりおよそ18万円で、それに仕事が日当で1万2000円出る。仕事は週3日なので月に15万円ほどの勤労収入となり、妻は働いていないが年金と合わせれば家計は十分な余裕がある。仕事で得る給与は現役時代から比べると微々たるものであるが、この15万円という額がとても大切な収入なのである。 「料理が好きっていうか魚が好きなんで、よく川や海に釣りに行って、魚を釣った後自分でおろしてお酒のつまみを作ったりだとか、そういうのもよくやりますね。仕事は少なくとも75歳くらいまではやりたいなと思っています。やっぱり金銭的なこともありますよね。孫だとか何かにいろいろお金がかかるもんですから。年金だけで暮らしていくとなると、今の生活をあらためないといずれ貯金が底を突くんじゃないかなっていう心配もありますから」 つづく「多くの人が意外と知らない、ここへきて日本経済に起きていた「大変化」の正体」では、失われた30年を経て日本経済はどう激変したのか、人手不足が何をもたらしているのか、深く掘り下げる。
坂本 貴志(リクルートワークス研究所研究員・アナリスト)