これが中国最古級の「名刺」だ! 関羽を捕らえた呉の名将・朱然、没後1700年を経て脚光をあびる
三国・呉の名将といえば、周瑜や甘寧あたりがスター扱いで、朱然(しゅぜん/182~249)の本当の活躍を知る人は、一般には稀だろう。「ああ、あの趙雲に斬られた人?」と、小説『三国志演義』の最期を思い出してもらえれば良いほうである。そこで彼の史実における活躍から、ほんのザックリ追ってみよう。 ■関羽を捕まえる「大金星」を挙げた 朱然は、主君の孫権と同い年。重鎮・朱治(しゅち)の養子になり、孫権と一緒に机を並べて勉強した同級生だった。時が経ち、歴史の表舞台に立つのは38歳になった219年。荊州(けいしゅう)での関羽討伐戦に参戦したときのことだ。 同僚の潘璋(はんしょう)とともに蜀の名将・関羽を追い込み、生け捕りにする大手柄を立てたのである。この戦いの指揮をとった呂蒙(りょもう)はまもなく世を去ったが「朱然を後任に」と言い残すなど、才能を買われていた。 3年後の222年、蜀の劉備軍が襲来。関羽の敵を討とうと敵勢は士気旺盛だったが、陸遜(りくそん)の名采配で撃退に成功。勝利に沸き立つ呉将らは「白帝城へ逃げた劉備を追撃しよう」と口々にいう。そんななか、朱然は慎重論を唱える。「北からは魏の軍勢が迫っています。深追いは禁物です」。それを聞いた陸遜も賛同し、軍を引き揚げさせた。 ■小説では早々に退場も、史実では魏の猛者と対峙 ここで小説『三国志演義』の話になる。というのも、小説ではこのときの展開がまるで変わっているからだ。朱然は追撃を諫めるどころか、みずから劉備の追撃を行ない、途中で趙雲と槍を交え、一撃で討たれてしまう。関羽捕縛以外に大した活躍もなく、凡将のまま出番を終える。 やはり、小説で神格化されている「関羽」を捕まえるという大罪を犯した「報い」なのか。「共犯」の潘璋もロクな死に方をしていない。 しかし、史実で朱然の真価が発揮されたのはここからである。彼の見立て通り、魏の司馬懿(しばい)、張郃(ちょうこう)の軍が荊州へ侵攻。これに対し、江陵の守将・朱然は守りを固めた。呉は何度も援軍を出すが、歴戦の名将・張郃らに都度撃退され、江陵はいよいよ窮地に陥る。 孤立無援となるなか、朱然はそれから半年以上も江陵を守り抜き、ついに魏軍は北へ引きあげた。その後、名実ともに呉の宿老・大黒柱となり、249年に68歳で世を去る。「演義」の死亡シーンから27年も長生きしているのだ。 ■今から40年前、朱然の墓のトビラが開かれる・・・ それから1735年が経った西暦1984年。安徽省の東部にある馬鞍山(まあんざん)という町で、工事中に三国時代の貴人の墓が発見される。墓は盗掘に遭っていたが、盗人は「金目の物」以外は残していったのか、副葬品が140点ほども見つかった。 墓室からは衣服、漆塗りの食器類などが見つかっていて、なかには国宝級の宝物に分類されたものもある。当時の酒宴風景を描いた器には、飲んで歌い踊る人々の上座に、皇帝・孫権らしき人物の姿も見える。 とりわけ重要なのが、木製の「名刺」である。墨書きされていた名は「朱然 字 義封(ぎほう)」。やはり本人の直筆だろうか。同じものが何本も出てきたことで、この墓の被葬者が彼であることは紛れもなかった。歴史学・考古学的大発見だった。なお「名刺」の語源は、相手が不在の場合、名前を書いた木札を門前の箱に入れて(刺して)帰ったことからという。 三国時代は1700~1800年前。その英雄たちの墓が、はっきりとした形で見つかることはほとんどない。「曹操の墓」(2008年発見)の真贋が長く議論の的になったように、決定的な副葬品がなければ断定が難しいためである。2000年代以降ではっきりしたのは、本人名義の印章が出てきた曹休の墓ぐらいであろう。 近年、蘇州で孫策夫妻のものと思われる墓が見つかったが、確定には至っていない。数年前には、伝承のものだったはずの「呂布の墓(河南省修武県)が本物と断定された」という情報がネット上に出回ったが、フェイクニュースだった。 そうした点からも、朱然の墓は考古学的に随一のもので、どれだけ貴重かがわかるだろう。今では墓の周辺は「朱然文化公園」として整備され「朱然路」と呼ばれる道までできている。 残念なことに、曹操墓のように朱然の遺骨が出てきたという話はない。盗掘で棺が破壊されたとき、金目のものを奪うためなのか、遺体ごと持ち出されてしまったのだろう。一部でも見つかっていれば身の丈7尺(7尺は当時の平均的な身長とみられ、現代に換算すると165cm前後と推定)に満たない小柄な体格だったという、正史『三国志』の記述との比較材料にできたのに残念なことだ。 三国時代から1000年を経て広まった小説『三国志演義』で、30年近くも「寿命」が削られ、冷遇された朱然。これは翻って考えてみれば「演義」の大罪といって良いかもしれない。しかし、編者の羅貫中も、まさか朱然の墓が後世に見つかり、彼がこの世で再び脚光を浴びる日が来るとは思いもしなかっただろう。まさに事実は小説より奇なりの好例である。
上永哲矢