全国模試1位「旭川の神童」率いるチームはなぜ伝説の高校生クイズで敗れたのか?…クイズ王・伊沢拓司を追い詰めた“ある公立校”「その後の物語」
クイズは続けなかった…「神童」のその後
『高校生クイズ』から半年後、“旭川の神童”塩越の姿は東京大学にあった。 高校時代から志していた法曹の道に進むべく、法学部を目指して赤門をくぐったのだ。全国トップの頭脳にとっては、入学自体はそれほど難しいことではなかったのかもしれない。 その一方で、競技クイズは続けなかった。 「最初、少しだけ東大のクイ研にはいたんです。でも、なんとなく足が遠のいてしまって。僕がいた時は大会での優勝を目指して、ガリガリとクイズをやる感じではなかった――」 そう途中まで言いかけ、塩越は言葉を変えた。 「いや、違いますね。結局は自分の本気度です。本気でやりたかったら別に他の大学のサークルに入ったって良かった。たぶん僕はやるなら突き詰めて、上を目指したいタイプなんです。でも、大学に入って、社会人とも戦うようなフィールドに挑むには、ものすごくクイズに時間を割かないといけない。大学の勉強があって、司法試験もあって、自分の将来もあって――そうなった時に、僕はそこまでクイズにベットすることができなかった」 ただ、むしろそれは至極当然の考え方だろう。 当時、「クイズで食っていこう」などという頓狂な発想は、普通の人間には出てこないものだったはずだ。 そして、塩越のその感覚を重綱はここでも「普通の公立校の限界」という言葉で表現した。 重綱は高校を卒業後、早稲田大学に入学。塩越同様、当初はクイズサークルに身を置いたものの、少しずつ足が遠のくようになったという。 「もちろん最大の目標だった『高校生クイズ』がなくなって、少なからず燃え尽きた部分はあった。でも、一番はクイズそのものよりクイズプレイヤーやクイズの価値をどうやって上げていくかの方が大事じゃないかと思うようになってしまったんです」 重綱は「教育的な意味でもクイズって、すごく価値のあるシステム」だと考えていた。だからこそ、それがアンダーグラウンドの世界で収まっていたらもったいないと感じるようになっていた。 「だからといって、当時テレビで盛り上がっていた『芸能人のおバカチェック』みたいなものはちょっと違う。どうやって知識スポーツとしての価値を上げていくのがいいんだろう……と思うようになった。そうなると、もはやプレイヤーとしては熱中できなくなってしまった部分があったんです」 それは奇しくも後に伊沢が立ち上げたQuizKnockにも通ずる考え方でもある。 一方で、その具体的な手法も、それをビジネスにしようという発想も、なかなか重綱の頭には浮かんでこなかった。そしてそれは個人の資質というよりも、重綱が「普通の公立校の限界」といった文化圏の差が大きいのかもしれない。
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