伊藤比呂美「白いコートとジャムの瓶」
バスはドイツの高速道から降りて違う道を走った。大きな立て看板にポルスカ(ポーランド語でポーランドの意)と書いてあった。国境を越えてすぐだったのだ。 四十年前にくらべて看板には英語が多く、昔には絶対なかったような大きなピカピカの建物、KFCの広告、西ドイツみたいな綺麗な民家もあって。おっと「西ドイツ」、今はないのか。昔、ポーランドから東ドイツや西ドイツを越えてパリまで行ったとき、西側の国々の家の綺麗さに驚愕したのだった。 バスが停まり、降りる人がいて、また走り出した。 考えてみたらあたしがポーランドについて知ってる部分は、自分が見た、観察したというよりも、当時の夫から日本語で聞いたものが多いのだ。夫は偏屈な男で、偏屈なポーランドの作家を研究していて、偏屈が偏屈に偏屈なふうに伝わって、あたしもかなり偏屈なポーランド観を持っていたんじゃなかったかと思う。でもその他に、二回目のポーランド生活で、あたしは、偏屈でない、生身の生きたポーランドも知った。 それが、ポーランド人の友人Mの両親だった。あたしたちがワルシャワにいたとき、友人Mは日本に留学中で、その親が、あたしたちを全面的に世話してくれたのだった。 うちの親みたいなワーキングクラスの夫婦で、子どもたちも、おじちゃんおばちゃんと呼んで、とても懐いていた。おばちゃんたちの生きる力の前には、偏屈な夫も、すべての偏屈な価値観を投げ出してひれ伏していたんじゃないかと思う。
あたしはおばちゃんが教えてくれるいろんな生活の知恵をたよりに、あの時代、社会主義の、崩壊直前の、モノの無い、厳しい時代を、まったくの外国人として生きた。 あたしは今、熊本で、毎年、庭に生るクワの実でジャムを作る。毎年よく生るから毎年作る。その時期はジャム屋になったみたいだ。今年もすっかり作り終えた時点で旅に出てきた。瓶をこつこつ集め、煮沸消毒して、ジャムを煮て、瓶に入れて蓋を閉める。 そのいちいちを、その昔おばちゃんから教わったことなんだと思いながら、手を動かしているのである。 おばちゃんの作った酢漬けのきのこやすぐりのコンポート。瓶の蓋がなかなか開かなくて、夫が「おばちゃん、どんな馬鹿力で」と言いながら格闘していたのを思い出す。 あたしもおばちゃんみたいに馬鹿力を発揮して、大の男が開けられないくらいに閉めようとするが、それが難しくて、どうしてもゆるくなる。人にあげる時は「なるはやで食べてね」と必ず言い添えているのだった。
伊藤比呂美