「不本意ながら股を開くことになった...」お寺でストリッパーが講演会!?一条さゆりが語った壮絶な半生
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第107回 『「《反権力》の象徴だった」...フェミニストたちのカリスマも酒におぼれて凋落...出家を求めて訪れた寺で住職から出された驚きの″提案”』より続く
一条が語る踊り子時代
講演は92年11月21日である。当日は70畳の本堂に約60人の聴衆が集まった。一条は御本尊を背に約1時間、子ども時代の経験、踊りの修業、家族や男性との付き合い、そして逮捕や刑務所での懲役について話した。 踊り子時代は毎日、100人を超える男たちの目をくぎ付けにしていた。舞台あいさつは何度もしている。彼女は人前で話すのを苦にしなかった。 踊り子時代が懐かしかったのか、当時についてかなり時間を割いている。 「(初めは逃げることも考えたが、半年くらいして)本当の踊り子になろうって。舞台は嫌いじゃないし。これで徹底的にやんなきゃいけないと思って。もう負けちゃならんって。(貧しくて)タマゴも食べられなかったから。米、肉、食べたいって」 「よーし、もっと看板(の踊り子)にならなきゃいけないって。可愛い女にならなきゃいけないっていうのが、自分で湧いてきたのね。だから、可愛がってもらおう、大事にしてもらおうと。負けてられないから。だから踊りの藤間流をならったり、タップやったり。ならいました」
大盛況の講演会
自分の話に酔ってきたのか、調子に乗ってロウソクショーについても説明する。 「自分の芸であり、自分の人生やと思ってやってきました。あれは熱いんです。(ロウを)ただ落としていたら、肌はやけどでむくれるようになる。最初、自分のお乳に落としたとき、『あちー、こりゃできないわ』って思って。でも、レモンの汁と油を塗っておくとやけどしないんです」 「そういう熱い思いしているから、男の人が弱音でも吐いたら、『何言ってんの』っていう感じです。血だらけになっている人を見ても、『キンカンでもつけといたらええの』って思います」 「ロウソクはね、みんな知らないけど、すごい刺激なんですよ。ロウソクを浴びてたら、自然とファーッとなって、自然にもだえている。それだけで男性というのは興奮状態になっていくでしょう」 ご本尊もさぞや驚いたことだろう。 話の締めくくりはこうだった。 「あらゆることが辛抱、辛抱でね。生きている間はそうです。私、今、一生懸命やってます。みなさんも、がんばって生きましょうね」 どんなつらいことがあっても、とにかく生き抜きましょうと彼女は呼び掛けた。病気と貧しさのただなかにあっただけに、この言葉は自分に言い聞かせているようでもあった。 話を終えて会釈をすると、一瞬の静寂の後、大きな拍手となった。