能登の状況は明日のあなたの街かもしれない 落合誓子[ノンフィクション ライター/珠洲市在住]
北前貿易の残影が見えた飯田町 飯田の町は珠洲市の中心市街地で、古い土蔵造りの商家もあり、北前貿易で栄えた華やかな時代が垣間見える歴史を持つ。現在、珠洲市で3年ごとに開かれている「さいはての奥能登国際芸術祭」(アートディレクター北川フラム/珠洲市主催)の作品会場も飯田町には毎回何カ所もあり、その古い佇(たたず)まいの家が来場者に人気があって、参加者に楽しんでもらってきた。 そんな、昔の土蔵造りの「大店(おおだな)の家」が今回の地震で、みごとに全て木端微塵(こっぱみじん)に飛び散った。 ところが、その大きな跡地が此処に来てほんの数日で瓦礫が撤去され、あれよあれよと言う間もなく仮設住宅が立ち並び、行き場のない町内の年寄りたちが住み始めたのだ。 なるほど、早く片付いたのには、そんな行政の思惑があったのかと思う。 しかし被災から8カ月。現在の被災地「珠洲市」は全体的にみて、「片付いた」とはとても言い難い。 行政の手配ではなくて、持ち主が伝(つて)を辿って業者を見つけて自分で片付けたという話も聞くが、調べてみるとその費用のどれだけかを行政が補助するという制度ができているらしい。しかし、全体的にみて被災地のほとんどが、まだそのままという現実なのだ。
あっても困るなくなっても寂しい瓦礫の山
身近にいる「瓦礫の撤去」を待っている人に聞いてみる。 「本当にいつになったらこの瓦礫をかたずけてくれるのかねぇー」 彼女自身は公営住宅の住人だが、日中は年老いた母親の住む「旧家」にやってきて母の面倒を見ていた。その母親も数年前に亡くなった。その家はあまりに古くてトイレが壊れたといっては修理し、外壁が抜けたといってはトタンを巻き、母親がなくなるまで手を掛け続けてきた。もちろん今は木端微塵(こぱみじん)。 「瓦礫となったこの家はもう邪魔だけど、でも思い出の詰まった家が跡形もなくなるのは淋しい」という。 彼女は女ばかりの姉妹の長女に生まれた。家は大きな饅頭(まんじゅう)屋さん。昔は菓子屋ではなくて饅頭屋という店があった。仏事や慶事の折りに、近所や知人に配る饅頭を専門に作る店だ。店頭売りはしない。 彼女は長女だから結婚するまで、その店の世話をしていた。母親は父親が見初(みそ)めて「旅の人」(県外居住者)を嫁にした。彼女の母は一人で饅頭屋を回す女傑だった。長いキセルで「刻みタバコ」を吸い、酒も嗜(たしな)む。「旧家」や「商人の家」や「町家」には、昔そんな女性がたくさんいた。 そんな女たちの「小銭を掛けた花札」など、何処(どこ)にでも見られたものだ。夕方にちょっと小路を曲がれば三味線が聞こえる。飯田町はそんな町だった。 実際はそんな女たちが裏で町を廻していたのかも知れない。饅頭屋の長女はそんな母親の最晩年に親の面倒を見ようと決心して実家に帰ったのだ。 その母親を葬(おく)った時、彼女はまだ七十代の初めだったと思う。働き続けた本人の年金と、あとはアルバイトで彼女は今を生きている。 「早く片付けて貰いたいねぇ」 瓦礫の話が出るたびに呟(つぶや)いてみせる。当面は瓦礫の撤去が彼女の願いだ。しかし話を聞いていると、彼女は「寂しさ」を隠さない。彼女にとっては瓦礫のあるうちは「ここは紛れもなくまだ饅頭屋」なのだ。 そのうえに彼女はその饅頭屋の店先で珠洲市指定のお休み所、いわゆる今流行の「しゃべり場」を年末までやっていた。 お茶とお菓子を持ち寄り、近所の年寄りが集まってくる。瓦礫が片付いて更地(さらち)になったら、そんな憩いの場の痕跡さえも残らない。そうなれば公営アパートに住む一人暮らしのただの年寄りに過ぎなくなってしまうかも知れない。 彼女は地震でいろいろなものを失った。瓦礫は1日も早く片づけて貰いたいが、だからといってその後に何か建てられる目処(めど)など何処にもない。自分の子供と、残っているこの瓦礫だけが自分が生まれて生きた「目に見える証」なのだ。 瓦礫が撤去されるということは、それらの全てを失うことだ。そんな老人たちのぽっかりと空いた穴は簡単には塞(ふさ)がらない。その喪失感と付き合うのが、私たち寺に住む人間の大切な仕事なのかもしれないと思う。 たとえ親族が亡くなっても「ご遺体」のあるうちは、人はまだ思いを掛けられるが、荼毘(だび)に付した後の喪失感はそれとはまた違う形で、いつまでも自分を揺さぶってくる。 私は寺の坊守なので、そんな御門徒の感情と不十分ではあっても、私なりに一生かけて付き合ってきた。今回のように、かけ替えのない「思い出」やその生きた歴史の「縁(よすが)」となるものを全部失っても「人」は生きていかなければならない。