広島・長崎に落とされた原子爆弾とアフリカの知られざる関係
◇アフリカがつないだ米国大統領の被爆地広島訪問 もともとアフリカは、大航海時代以降の奴隷貿易からはじまり、近代のヨーロッパ諸国による植民地化、恣意的に画定された境界線や人の移動制限といった自由の剥奪など、強国の植民地主義や帝国主義に翻弄され、搾取され続けてきました。 前述した1960年の「積極会議」の開会式のスピーチで、主催したガーナのンクルマは、アフリカ諸国の反対に耳を貸そうとしないフランス政府の動きを止めるためにアフリカがとりうる方策を次のように述べています。 「フランスの核実験に対するこれからの積極的直接行動は、たとえば実験地域へ集団行進するという非暴力的形態で実施することができるでしょう。たとえ一人も実験場に辿りつけなかったとしても、アフリカ各地からそして海外からやってきた数百の人々が、投獄や逮捕される危険を冒してまで、アフリカを分断する人工的な境界線を越えようとする努力は、ドゴール政権を除くフランスの、そして世界中の人々が無視することができない抗議行動となるでしょう。我々は忘れてはなりません。この有害な放射性降下物は、これまでも、そしてこれからも決して、植民地主義が我々の親愛なる大陸を恣意的、人工的に分断している境界線を考慮したりはしないのです」 植民地支配からの独立と民族自決を成し遂げていったアフリカにとって、核や大量破壊兵器が象徴する「力による支配」を是とする強国の考え方は、まったく相いれるものではありませんでした。植民地時代までと同じ轍を踏まないという強い意志のもと、核廃絶の平和運動は独立運動・反植民地運動・反差別運動と一体化して進められてきたのです。 また、1962年の「アクラ会議」の開催に、複数のアフリカ系アメリカ人が参加し、重要な役割を果たしていたことも注目すべきでしょう。 多くのアフリカ系アメリカ人にとって、核軍縮運動を含む平和運動は、彼らがアメリカで立ち向かっていた黒人解放運動と密接にリンクしていました。黒人権利回復運動を主導するアフリカ系アメリカ人の知識人たちの間では、すでに第二次世界大戦直後から、原子爆弾が日本に対して使用されたことを人種主義との関連で捉えていました。 2016年にはバラク・オバマが現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問し、原爆死没者慰霊碑への献花や「核のない世界の追求」を明言するスピーチを行いました。実父がケニア出身のオバマは奴隷貿易の黒人奴隷の子孫ではありませんが、アフリカ系のルーツと広島訪問は単なる偶然ではなく、アフリカの反核運動の歴史的文脈の中で結び付けられていると私は考えています。 残念ながら、アフリカ史という学問がまだマイナーなこともあって、核兵器とアフリカとの関係は日本ではほとんど認識されていませんが、アフリカ学の研究者としてはもっと注目してほしいと思っています。 アフリカもまた第二次世界大戦や冷戦期の軍拡競争に当事者として巻き込まれていますが、西洋中心の歴史観の中ではほとんど省みられることはありません。それは、わたしたち日本の若者が教科書で学ぶときにも同じことが言え、高校で学ぶ「歴史」科目において、アフリカの過去が扱われる割合は極めて少ないのが現状です。 しかし、この地域に歴史がないかといえば、もちろんそんなことはありません。アフリカの人口は現時点で14億人を超えており、スポーツや音楽、ファッションの世界でも非常に大きな存在感を発揮しています。日本からは地理的に遠いアフリカですが、現在のグローバルな社会状況を理解するためには、日本の人々もその歴史や運動に目配せをする必要があると思います。
溝辺 泰雄(明治大学 国際日本学部 教授)