広島・長崎に落とされた原子爆弾とアフリカの知られざる関係
◇脱植民地化期のガーナが主導した核兵器廃絶運動 アフリカの国々が次々と独立を果たしていった1950年代後半から1960年代は、東西冷戦の緊迫化に伴う核軍拡競争が加熱化していた時期でもありました。とくに、フランスがサハラ砂漠での原爆実験計画を公表したことにより、核兵器はアフリカにとっても現実的な脅威となり、各地で抗議運動が実施されました。 なかでも、1957年にサハラ以南アフリカで最初に独立を果たしたガーナ(旧イギリス領・ゴールドコースト)の首相であったクワメ・ンクルマは、独立まもない同国で核兵器の廃絶を求める国際会議を主催するなど、アフリカの核兵器廃絶運動を主導しました。 こうした反核の意志は、アフリカの国々の指導者だけでなく、市井の人々にも共有されていました。実際に当時の新聞を調べてみると、たとえばガーナの主要な生産物であるカカオが放射線の雨で汚染されるのではないかといった不安の声が伝えられ、多くの人が核実験に反対するデモを行ったことが報じられています。 しかし1960年2月13日、フランスは当時植民地下においていたアルジェリアで原爆実験を強行しました。フランスの初の原爆実験から半世紀以上が経った今も、がんの発症や奇形児が生まれるなどの深刻な影響が残っているとされています。 当然、抗議を続けていたアフリカの人々は、「青いトビネズミ(Gerboise Bleue)」と名付けられたこの原爆実験の強行を「白人の強国」による植民地主義・人種主義の象徴として受け止めました。そして、アフリカを中心とする世界的な核廃絶運動と平和運動を本格化させていきました。 ンクルマは1960年には「アフリカの平和と安全保障のための積極行動会議」を、1962年には「爆弾なき世界のためのアクラ会議」をガーナで開催し、欧米諸国による核爆弾実験への抗議と核兵器廃絶へ向けての国際運動体の創設を模索しました。 あまり知られていませんが、アフリカにおける反核運動には日本人も参加しています。1960年の「積極会議」には元参議院議員で平和活動家の高良とみが、1962年の「アクラ会議」には高良に加えて、広島市長の浜井信三と日本被団協理事長の森瀧市郎が招待され、世界各国から集まった平和運動家や研究者たちとガーナで核廃絶にむけた議論を行っていたのです。 アフリカにおける反核の動きは、「アクラ会議」の翌年に発足した「アフリカ統一機構」(OAU)が主導する形で継続されていきました。OAUは1964年に「アフリカの非核化に関する宣言」(カイロ宣言)を採択し、翌1965年には国連総会で承認されました。 そしてこの流れは、1990年代前半の南アフリカによる核放棄、1996年のOAUによる「アフリカ非核兵器地帯条約」(ペリンダバ条約)の採択、2003年のリビアによる核放棄、2009年の「ペリンダバ条約」の発効へとつながっていきました。 このように、アフリカには第二次世界大戦後の核兵器廃絶運動を世界的に牽引してきた伝統があるのです。核兵器禁止条約への参加国が多いという事実も、まさにこの延長上にあると言えるのではないでしょうか。