日体大、箱根駅伝19位の大敗から総合優勝までの逆転劇。別府健至監督が行った改革とは?寮での生活からキャプテン任命方法まで見直して
◆改革の始まり 改革は、普段の生活を見直すところから始まった。日体大OBで全国高校駅伝8度優勝の名伯楽、渡辺公二・西脇工業高前監督を特別強化委員長に招いた。大半の部員が暮らす寮での生活は練習や試合、パフォーマンスにつながる全ての源だ。 トイレのスリッパは整然とそろっているか、顔を合わせた時のあいさつはできているか、消灯時間に全ての照明は消えているか。 それまでどこかおざなりになっていた「当たり前のこと」を当たり前にできるように、意識を徹底した。 野菜や肉、魚だけでなく、塩や醤油などの調味料に至るまで、体に良い食材にこだわって入れ替えた。 「伝統校として長く続けてきただけに、何となく流されてきたことが多かった。そういう細かいことを全て見つめ直そうと。甘えをなくし、足元を見る作業だった」と別府は取り組みの真意を説明する。 再建のカギを握っていたのが服部だ。新主将はミーティングで監督の横に立って全体を観察することから始めた。自信がなさそうに下を向く選手には声をかけ、仲の良い選手に詳しい事情を聞いた。 当初、チーム内や卒業生の間に、3年生の主将に対する懐疑的なまなざしがなかったわけではない。「上級生と下級生の間に立って、どう振る舞うべきか、試行錯誤の連続だった」と服部。精神的なストレスで一時は円形脱毛症になった。
◆チームの雰囲気が変わる 服部が「チームの雰囲気が変わり始めた」と感じたのは、夏合宿の頃だった。4年生が練習で率先して声を出すようになり、選抜メンバーだけでなく、全員が集中し始めた。 「4年生が支えてくれたことが大きかった。何と言っても、みんなたすきが途切れた悔しさを持っていたし、チームを何とか再建したいという気持ちは共通していた。最上級生がその覚悟を示してくれたことで、チームが一つにまとまっていった」と服部は感謝する。 別府もその変化を肌で感じていた。秋の予選会では、頼みの服部は故障明けで万全ではなかった。だが、一丸となりつつあったチームの雰囲気に「不安は感じなかった」という。 見込み通り、ペースメーカーを務めた服部が集団を引っ張り、全員が底力を発揮してトップ通過。本大会に向けた12年12月の伊豆大島合宿では、道路に波しぶきが飛ぶほどの強風の中で30キロ走を敢行した。 他校が尻込みして練習を控えるほどの悪条件で、箱根を目前に控えた中でも「やり遂げ、影響を引きずらず、むしろ勢いにつなげられる自信があった」と別府は言う。 チームは期待通りに30キロを走り抜いた。「箱根の登録メンバー16人だけでなく全員がいつでも走れる状態。これで優勝できなければ監督を辞める」。そう決意するほどチームの仕上がりに確信を抱いた。 本大会では培った力を発揮する。往路は強烈な向かい風が吹くコンディション。5区を任された服部が東洋大に続く2位でたすきを受け取ると、主将として厳しい状況を乗り越えてきたメンタルの強さを存分に見せつけた。 力強く山を駆け上がり、1分49秒差を逆転して26年ぶりの往路優勝を飾った。全区間で区間賞は服部だけだったが、復路も抜群の安定感で駆け抜け、30年ぶり10度目の総合優勝を果たした。
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