<ボクシング>村田 辰吉も絶賛 思い出の地でKO勝ち
満員の島津アリーナ(京都府立体育館)の赤コーナーの下には「豪気」と染め抜いた黒いTシャツの軍団が座っていた。名門、南京都(現在、京都廣学館高校)のボクシングOBの面々だ。村田が恩師と仰ぐ、当時のボクシング部監督だった武元前川先生のご遺族も、遺影を持ってリングサイドに座っていた。中学時代、そのあまりものワルぶりに手を焼き、「このままエネルギーを持て余したらロクな人間にならん。何かに打ち込ませたい」と、たまたま新聞の記事で見ていた奈良工業ボクシング部の教室へ参加させた中学時代の担任、北出忠徳先生もリングサイドにいた。「村田! 北出先生が来てるで!」。インターバル中には、そんな大きな声も響いた。 京都は「ボクサー・村田」のアイデンティティが眠っている場所だ。村田曰く「学校は京都というより奈良に近いとこで、あんまり京都のことは詳しくない」そうだが、かつての恩師や仲間がホテルを訪ねてくれ、計量を終わり、四条のあたりを散歩していると、懐かしい思い出が蘇ってくる。亡き武元先生と共にボクシング部の顧問だった西井一先生とは、2日前にホテルで会った。減量中で、ほんの少ししか口に入れることのできない村田と、西井先生は、その食事中に昔話をした。 「高一のときは、逆に増量作戦やって、めちゃくちゃ食わされていたことがあったなあ」 「ありましたね。将来のために今、体を大きくしとかなあかんと」 「そうそう。それで来年のためにと、1階級上にエントリーしたのに、決勝まで行ってしもたんや」 武元先生は、将来的にミドル級という階級を意識して、高校1年の村田の増量と肉体作りをスタートさせた。その指導者の慧眼が、オリンピックのミドル級で金メダルを獲得、今度は、世界の猛者がわんさかと集うプロの中量級のビッグマーケットで這い上がろうとしている今現在の村田につながっている。 武元先生は、基本練習を繰り返した。それが南京ボクシング部の流儀であった。鉄鋼所に依頼して握りこぶしの形に合わせて特別に作った鉛のウエイトを持ってのシャドーボクシング。しかも、通常1.2キロの錘を、村田だけは、1.6キロの錘を持たされた。新入生から約1年間は、右ストレートとジャブ、ワンツーだけを、それで反復練習する。ウエイトを持つと、打つ際にしっかりと肩を入れ、足腰を使わなければ腕が伸びない。その正しいストレートの打ち方は、必然、パンチ力のアップというものにつながる。「ボクシングが荒くならないように、部全体で、週に何度か、基本練習を徹底する日が設けられていた」とは、西井先生の回顧。