テレビドラマは今どう語られるべきか? 『ふてほど』『アンメット』など2024年重要作を総括
「考察」ドラマの変化
木俣:宮藤さんの作品で言うと『終りに見た街』も、あの終わり方が分からなかったという感想をSNSで見ました。山田太一作品の中ではSFふうな味付けだから異色かもしれないけれど、今回で3度目の制作ということはそうなるにふさわしいわけがあるはずで。宮藤さんがオリジナルで付け加えた勝地涼さんが演じる謎の存在も答えがないから楽しめない人もいるのを感じましたが、私はあの謎の人物がとても興味深かった。そんなこと意見をいろいろ発したいけれど、今は「この終わり方なんだ? 意味わかんない」というようなシンプルな意見が一気にSNSで広がって埋め尽くされ、ささやかな視点が埋もれてしまう。 成馬:わからなかった人の方が多かったから、正解らしき読み方を提示されると、そこに乗っかった方が早いと考えてしまう。考察でも批評でもいいけど、作品について自分で考えることを放棄しちゃう人が可視化されすぎてる。でも、内実は違うと思うんですよ。TVerとかで作品をじっくり観て、内容について真剣に考えて、簡単に言語化しない人もいるんだけど、そういう人たちはSNSではいないことにされちゃう。たぶん生方美久さんのドラマはそういうふうに静かに熱狂して観ている人が多いんだと思うんですけど。そういうズレは凄く感じて。 田幸:でも単純に2024年のドラマって良質な作品がすごく多くて「考察」って言われるものの意味合いも変わってきてますよね。一頃の刺激物ばかりだった考察系ドラマってものすごくチープな作品が多かったのに、今年の作品は「考察」と言っても『海に眠るダイヤモンド』は「いづみ(宮本信子)が誰なのか」を最大のテーマにはしていなかったですし、一時の考察ブームの時よりも私はずっと物語を深く掘り下げる深化をしている気がします。 木俣:それは私も感じていて、『海に眠るダイヤモンド』は考察要素の先に見せたいことがあって、「考察」はフックとして使っている。逆に考察要素を散りばめて関心を引っ張るだけのドラマは古くなったと思うんですよ。『海に眠るダイヤモンド』は最後に行くに従って、作り手の狙いが明確になってきて、端島で生活してきた人たちを、現代に生きるじつは全くの無関係の若者が自分事のように感じるという、現代と歴史を繋ぐ理想形のような良い話だったなぁって思って。田幸さんも挙げている『アンメット』もすごく良かったのですが、どちらの作品も杉咲花さんの演技が良かったんですよね。 成馬:今年のドラマで、もっとも評価された女優ですよね。 木俣:『アンメット』は杉咲さんがそばかすを残したナチュラルメイクも魅力的なうえ、お芝居も自然でした。彼女に限らずどの役者さんも演技がナチュラルだった。杉咲さん演じる記憶障害のある医者と真摯に向き合っている姿を丁寧に見せ続けた。『海に眠るダイヤモンド』もそうで、じっくりと芝居を見せたいと作り手が考え始めてるのかなと思ったんですよね。そういうドラマって、脚本家が誰とか演出家が誰とか、俳優が名演技とかすら考えず、作品に没入できる。芝居もいいし、映像もきれいというのは、多分、配信で観る国外の視聴者をも意識しているからだと思うんですよね。実際、作り手のかたにそういう話を聞いたことがあります。日本の地上波で日本人だけが観るものだったドラマが、今は国外にも売りたいから海外ドラマのクオリティに匹敵する画作りをしないと評価されないと。ベタッとした平面的な画は海外で評価されないらしく陰影の深いものが好まれるという認識でいま、ドラマが作られているらしいです。だからこそ映像のクオリティは上がって、俳優のモチベーションも上がるのだと思います。 田幸:ドキュメンタリーを観ているような生のお芝居は杉咲さんの手腕によるところが大きくて、毎回制作陣は長時間の打ち合わせをしていたそうで、その現場に常に杉咲さんは居たらしいんですよね。だから役者を超えてプロデューサー目線で関わっていたところがあって。若葉竜也さんが出演したきっかけのひとつも杉咲さんの言葉があったようですし、あと『海に眠るダイヤモンド』の神木隆之介さんと杉咲さんのシーンは、かなりアドリブ込みで芝居で2人が作り上げてきたとプロデューサーの新井順子さんがおっしゃってますよね。役者発信のリアリティのある芝居が、地上波のドラマで観られるようになってきてるのはすごいありがたいなぁと思います。