テレビドラマは今どう語られるべきか? 『ふてほど』『アンメット』など2024年重要作を総括
“評論家”は何を書くべきなのか
木俣:かつては一般の人が声をあげる場がなかったじゃないですか。でも今はプロの評論家も一般視聴者もSNSで同じ土俵に上がって一斉に感想や評論を書いている。そこで求められるのは評論家的な多角的な分析ではなくて、一般視聴者のそんなにマニアックじゃない素直な気持ちだと思うんですよね。昔からそういうふうにドラマを観ていた人たちの方が多数派で、評論家なんて世の中の一握りに過ぎず、たまたまメディアで発言していたから影響力があるように見えただけだと思うんですよ。それこそ何年か前に成馬さんが「今のドラマ評論の書き方でいいのかと悩んでいる」と私との対談でおっしゃっていましたが、一般視聴者と評論家の意識のズレは、さらに強まってますよね。例えば、私がSNSに何か書く場合、俳優さんのここが良いというファン目線の発言のほうが断然喜ばれてたくさんの人に読んでもらえるし、シンプルに良い悪い、好き嫌いと断じたほうが好まれます。……じゃあ仕事として書いている私たちが一般的な視点で書けばいいかというと、そうではなくて。こちらとしてはその間に隠れているものや違った視点を探すのが仕事だと思ってやっているわけですが……。 成馬:いつの時代も、好きな俳優を観たいという「推し活」としてドラマを観ているという人が大多数なんだと思いますよ。考察と推し活が主流になると、真っ先に排除されるのは小難しい評論ですよね。自分はわざわざドラマ評論家と名乗ってるので、こういう人間はいずれいらなくなるだろうなぁと、数年前から思ってます。 木俣:一般的なノリに乗っかって、数字を取れる書き手でいたいのか、そこには乗っからずに独自の切り口を見せるという意地を見せるのかが、私たちの仕事は今、問われているのかなと思います。田幸さんが大勢の人が観ている作品もしっかりおさえていて、成馬さんはマニアックだけど新しいものを発掘しようとしている中、私は守備範囲が狭いほうですが、書き手としての独自の視点は無くしたくないんですよね。 田幸:私は自分を評論家とは思ってなくて、やっぱりライターとして一般の人が知りたいことに突っ込んでいくスタンスなんですよね。評論家やコラムニストの方の中には、取材はしないというスタンスの人っているじゃないですか。現場に行って、関係者と話して内情を知っちゃうと書けなくなるから取材はしませんよというスタンスの方は少なからずいらっしゃるのですが、現場を取材するライターってやっぱり別のものがあって、私はどっちもやってるので、一視聴者としてみんなが知りたいことを自分の立場だから代表して聞けるという感覚があるんですね。だから、第1話を観て「これはくるぞ」と思うドラマは制作者インタビューなどをその時点でいろいろな媒体に提案し、取材し、視聴者がのってきた、熱量が高まって、もっと情報が欲しいという飢餓状態のタイミングで掘り下げる記事を提供する。“批評家”とはスタンスがちょっと違うところがあるんだと思います。 成馬:その観点で言うと、どのファンコミュニティとも距離は取りたいなぁと思って僕は書いてますね。SNSを見ていると、どの作品を褒めてどの作品を貶めれば、どういう層の人が喜ぶのかがある程度わかるじゃないですか。そこに同調せずに自分の意見を出すのが年々、難しくなっていて。特に今年は記事を書く時にめんどくさいことがいっぱいあったなぁと思って。結局、読者は作品を褒めてるか貶してるかで判断していて、自分が推してる作品の敵か味方かってことでジャッジするじゃないですか。それが戦争状態になってたのが『ふてほど』と『虎に翼』をめぐる発言で、この2作について書く時は揚げ足をとられないようにすごく気をつけていたけど、そうやって意識していること自体が何か無意識の忖度が働いているようで、とにかく書いててしんどかったですね。