「人権」が「超あいまい」で「非常に危険」な概念だと断言できる「恐ろしい理由」
クローン人間はNG? 私の命、売れますか? あなたは飼い犬より自由? 価値観が移り変わる激動の時代だからこそ、いま、私たちの「当たり前」を根本から問い直すことが求められています。 【写真】「人権」が「すべての人に与えらえた権利」と理解するのが危険な理由 法哲学者・住吉雅美さんが、常識を揺さぶる「答えのない問い」について、ユーモアを交えながら考えます。 ※本記事は住吉雅美『あぶない法哲学』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
人権は人類の中だけで通用する
人が、他の動物でなく人間であるがゆえに生来持つものとされるのが人権である。人類は自分たちだけに人権という特別な権利を与えた。そして他の動物には、自分たちの生存や快適な生活を脅かさない限りでの道徳的権利を認めてきた。 人間は自らを「霊長類の頂点」と勝手に余裕綽々で思い込んで、他の諸動物たちに慈悲をたれているのである。 人間が自分たちに与えている人権と、動物たちに認めている権利とは、根本的に違う。厳密には、現状では動物という種に「福祉」を認めているだけなのだ。 動物の権利とは、人間の視点から存続させることが望ましいと考えられる種を存続させるために、その種全体に対して与えられるものである。 たとえば鯨、イルカ、マグロ、トラ、イリオモテヤマネコ、トキ、サーバルキャット等々、種として今後も残って欲しい生き物については福祉もしくは道徳的権利を認め、人間はそれらを保全する道徳的義務を負う(とはいえゴキブリには福祉を認めず殺しまくっているが)。 但しあくまでも「霊長類の頂点」人間様の都合が最優先である。あくまでも種として、しかも人間の生活に支障を来さない範囲で存続して欲しいと虫のいいことを求めるので、繁殖しすぎたり住宅地に入り込んだり畑を荒らしたりするようになると、今度は人間が間引きをする。エゾシカやニホンジカがいい例だ。間引かれる個体には動物権はない。 それに比べると、人権には個別性がある。つまり個人が国家や他人、多数者に対して「私を押しつぶすな、差別するな、人として平等に扱え」と主張する根拠となっている。だから個人は、人間集団の中での平等要求、普遍性要求も持っている。 人権はそもそも、キリスト教的自然法思想(とくにロック)に端を発している。その思想によれば、人は生まれながらに生命・自由・財産への自然権を持っており、それは国家というものが成立する以前から存在する権利であった。その自然権こそが人権の母胎なのだといわれている。 したがって、地球上に人類を脅かすより高知能の生命種がまだいない現在のところ、人類という種を存続させるために人権が主張されているわけではない。人権とは、あくまでも人類の内側でのみ通用する、個人やマイノリティの「切り札」なのである。だから、それは人間社会の中で生きる限りにおいてこそ、一人一人にとって大切な、守られるべきものなのだ。 北海道の山中で自分に襲いかかるヒグマに対して「私には人権としての生存権があるんだぞ」と喚いても無駄である。かりにそのヒグマに言語が理解できたとしても「だから何? お前ら人間だって俺らを撃つべさ」と返されてガブリだろう。