「人権」が「超あいまい」で「非常に危険」な概念だと断言できる「恐ろしい理由」
人権は恣意的に認められてきた
しかし歴史的事実としては、人権ははじめから万人に認められていたわけではなかった。ヨーロッパでは、当初はそもそも人と見做されない奴隷が存在したし、はじめに国王に反抗してその権力を制限し、自らの特権を認めさせたのは貴族だけであった(1215年のマグナ・カルタ)。 その後、イギリスでは権利請願(1628年)、権利章典(1689年)を経て市民にも人権が認められ、アメリカのヴァージニア権利章典(1776年)において人間が生来もつとされるロック型の自然権が実定法化された。そして、アメリカ独立に触発されたフランス革命と人権宣言(1789年)に至って身分制は解体され、「すべての人」が人権において自由でありかつ平等であると謳われた。 しかし革命時、〈すべての人〉は文字通りの万人ではなかった。人間と訳されているフランス語hommeは英語のmanと同じく同時に男性を示すもので、革命政府は実は男性、しかも白人男性にしか人権を認めなかったのだ。革命に歓喜して「これからは女も男と平等の人権を持てる!」と思い込んで女性の権利について演説した女性は、革命政府によってギロチンに送られた。 近代の入り口では、人権は白人の成人男性だけのもので、女性と植民地の人々には認められていなかったのである。後者の人々にも人権が認められるには、第二次世界大戦の終結を待たねばならなかった。 戦後は国際的な人権の実定化によって、人権の持ち主の範囲が広がり、その内容も拡張された。世界人権宣言(1948年)、国際人権規約(A・B規約)(1966年)、人権差別撤廃条約(1969年発効)等々によって、開発途上国の視点にたつ経済的・社会的権利、旧植民地などの視点に立つ民族自決権などの集団的権利までも認められるようになった。 とはいえ、条約や宣言があっても、現実の差別や権利の不均衡が完全に解消されているわけではない。また、元はキリスト教に端を発している自然権・人権の観念であるから、現代に至っても全世界の人々すべてが受け容れているわけではないという限界がある。 人間が、人間に対して人権を認める場合も、動物に対して福祉もしくは道徳的権利を認める場合も、普遍的ではないのである。人間の中でも歴史の過程でその都度支配的な層が、自分たちに好都合なように権利を認めるからである。 現在は地球上で人類が支配する世界がまあ安定しており、余裕があるから、一応万人に人権が、そして人類にとっていろんな意味で存続してほしい動物種に道徳的権利が認められている。だが、もしそんな余裕がなくなってきたら……? さらに連載記事<女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美