伊那谷楽園紀行(11)偶然が誘った伊那谷の扉、運命の歯車の奇妙さ
伊那谷というのは、どういうところなのか。2009年の秋まで、捧はなんの知識も持ち合わせてはいなかった。 伊那谷楽園紀行(10)伊那谷に知る好奇心、創造館館長・捧剛太の幸せ 2009年の年の暮れ。12月22日に、捧は伊那市役所で、市のお歴々と並んで記者会見を開いた。まだ伊那市創造館という名前も決まっていなかった、旧上伊那図書館の建物を利用した生涯学習施設の館長が捧に決まったという記者会見だった。 捧は緊張した面持ちで記者会見に臨んだ。そこで何を話したのかは、よく覚えていない。なにしろ、そのつい3ヶ月前まで自分が、伊那谷に来て館長になるとは、まったく思っていなかったのである。
伊那市が、新しく設置する生涯学習施設の館長を公募している。地方紙に僅かに掲載された記事を見つけたのは9月。それが12月には、自分が採用されて「館長」と呼ばれている。地元紙の記者たちがたくカメラのフラッシュで顔がこわばるのは、緊張していたからばかりではない。積み重なった偶然という、運命の歯車の奇妙さ。すべての歯車が、意図せぬところで、一つずつかみ合い繋がっていく。人生では得がたい経験をしたことの高揚感だった。 2009年9月のシルバーウィークの5連休。あいにくの雨の中を、捧は日産キャラバンを運転して東京へ戻ろうと名神高速を飛ばしていた。車の後ろに積んだ機材は重く、時折ガタガタとなる金属音が、疲労感をなお一層強くしていた。 技師だった父親が独立してはじめた会社を継いで20年近くが経っていた。工作機械を用いて、鉄筋コンクリートを切り抜くという極めて特殊な工事を請け負う会社。会社を継いだ1990年。景気が上向く中で、新しい機械を取り付けることを計画する工場。公共施設の増築や改築。国内でも限られた会社しか持たない技術には、全国各地から注文がひっきりなしだった。 美大を出てから就いた、デザイナーの仕事よりも、魅力的だと思っていた。景気の後退と、類似の技術をもっと安いコストで請け負う同業他社が出現するまでは。 21世紀になってから、会社は右肩下がりだった。最大で9人もいた社員には、何度も頭を下げて辞めてもらった。頭数を減らしても、仕事の依頼が来なければ焼け石に水だった。 不安を感じていた頃に、京都の工場から仕事の依頼が来た。工場は24時間稼働しているから、唯一機械が止まっているシルバーウィークの間に、造作をして欲しい。仕事の依頼が途絶えつつあるところに訪れた幸運を、断る理由は、どこにもなかった。 東名高速から、名神高速へ。ひとり、工作機械を積み込んで西へ。連休の初日から、時間を惜しんで作業を続けた。終わったのは、連休最終日の午前中だった。 毎日が日曜日になってしまう不安はあるけれども、世間の休日に仕事をすると疲労感は募る。それも、ずらりと並んだ機械が止まり、静まりかえった工場の中。時折、巡回の警備員は通り過ぎるだけ。目が合った時に交わす会釈も、何度も続けば適当になる。 疲れた身体で、工場の担当者に何度も頭を下げてエンジンキーを回した。キュルルっと、エンジンの始動音を聞くと、両肩にずんと、なにかが乗ってくるような気持ちになった。「早く帰って、風呂に入って。それから、一杯やって寝よう」 名神高速に乗って、カーナビを見ると、まだ昼頃だというのに、東名高速は東京へ戻る車列で真っ赤に染まっていた。 ハンドルに寄りかかるように、ため息が出た。「みんな遊んでいるのに、なんで仕事をして、汚れた身体で帰らなきゃいけないのだろう」