透析を止めると、その先に「まともな出口」はない…約35万人が透析を受ける「透析大国日本」の「知られざる現実」
「私たちは必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった」 なぜ、透析患者は「安らかな死」を迎えることができないのか? どうして、がん患者以外は「緩和ケア」を受けることさえできないのか? 【写真】「がんで死ねるのは幸せだ」…タブー視される透析患者の死 10年以上におよぶ血液透析、腎移植、再透析の末、透析を止める決断をした夫。その壮絶な最期を看取った著者が記す、息をのむ医療ノンフィクション、『透析を止めた日』(堀川惠子著)が刊行された。 本記事では『透析を止めた日』から「序章」を特別公開する。 ※本記事は堀川惠子『透析を止めた日』より抜粋・編集したものです。
人生最後の数日に、人生最大の苦しみを味わうことに…
夫と人生を歩むと決めた日から、私はどこか脅えていた。そう遠くない将来、この人を喪うときがくるかもしれない──。 私たちが出会ったとき、彼は血液透析(以下、透析)を始めて8年が過ぎていた。彼と結婚するとき、反対する人たちから忠告された言葉がある。「透析十年」──。透析患者は10年もたない、という意味だが、もちろん事実ではない。ただ透析患者が、いくつかの理由から常に死の恐怖と隣り合わせであることは否定できない事実である。 透析とは、腎臓の機能が著しく低下したり廃絶した患者の体から、過剰な水分や毒素などの老廃物を取り除いて、血液を浄化する治療だ。 透析のおかげで、多くの腎不全患者が命を長らえることができるようになった。透析がなければ夫も、私と出会うはるか前に亡くなっていただろう。だから私は透析という医療に感謝している。同時に家族の立場から、透析がいかに厳しい治療かという現実も知った。慢性の経過で壊れた腎臓は、再生しない。だから腎臓移植をしない限り、透析は一生続く。透析を止めてしまえば、数日から数週間で死に至る。これが恐怖でなくてなんであろう。 夫は、間断なく襲う体調不良と闘いながら、過酷なテレビ制作の現場に立ち続けた。私の人生で、彼ほど自分に厳しく、孤独で繊細で、底なしの優しさをあわせ持つ人はいなかった。12年にわたる透析、腎臓移植をして透析の鎖から解き放たれた9年、そして再び透析に戻った1年余──。病との闘いのような人生だった。 一日でも長く健やかに生きてほしい、そう願いながら、この人の最期は私が看取るのだと覚悟をしていた。夫が最後の入院をして亡くなるまでの数ヵ月、急速に衰えていく彼の食事の介助も、口腔ケアも、排泄の世話も、褥瘡対策も、全身のマッサージも、できることはやったと思う。24時間、片刻もそばを離れることはなかった。 しかし本書を書き始めるにあたり、私は正直に告白せねばならないだろう。 私たちは確かに必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった。夫の全身状態が悪化し、命綱であった透析を維持することができなくなり始めたとき、どう対処すればいいのか途方に暮れた。医師に問うても、答えは返ってこない。私たちには、どんな苦痛を伴おうとも、たとえ本人の意識がなくなろうとも、とことん透析をまわし続ける道しか示されなかった。そして60歳と3ヵ月、人生最後の数日に人生最大の苦しみを味わうことになった。それは、本当に避けられぬ苦痛だったか、今も少なからぬ疑問を抱いている。 私たちが終末期の現場で直面した困惑と苦痛は、個人の努力不足だけで起きたわけではなかった。人間として未熟ではあったが、死への準備や覚悟が、ことさら足りなかったわけでもないと思う。そこには明らかに、透析をめぐる医療システムの問題があった。 現在、日本では約35万人が透析を受けている。人口比では台湾、韓国に次いで世界3位、まぎれもない透析大国である。 透析医療は、入り口は間口が広い。透析を始めることを決断しさえすれば、そこからは透析に必要なシャント手術を経て透析導入へと、動く歩道で運ばれるがごとく進んでいく。都市部には電車が停まる駅ごとに透析クリニック(維持透析施設)があり、どこでも歓迎してくれる。日本の透析医療の水準は高く、清潔で安全に治療を受けることができる。患者には手厚い医療制度が用意され、福祉制度の面でも優遇されている。 透析の医療費の総額は年間約1兆6000億円、日本の全医療費の約4%を占める。つまり透析という巨大な医療ビジネス市場が形成されている。医療機器メーカー、製薬会社、そして透析施設に融資を行う銀行にまで莫大な利益をもたらし、「透析患者が10人いれば、数年でビルが建つ」とも揶揄されてきた。 一方で、そのビジネス市場から外れる「透析を止める」という選択肢の先には、まともな出口が用意されていない。 体調が悪化し、座位を保てなくなって通院ができなくなると、患者は頼みの綱だった透析クリニックから切り離される。透析という医療の専門性から、在宅医療とつながる機会も少ない。ほとんどの患者は透析を続けるための「社会的入院」を余儀なくされる。 血管も心臓も確実に劣化は進む。永遠に透析を続けることは不可能だ。誰にだって「透析上の寿命」は訪れる。それなのに、患者を死に向かって軟着陸させる体制がない。意識を失っても、寝たきりになっても、認知症を患おうとも、生物学的な死が訪れる瞬間まで延々と「透析を受けさせてくれる」特殊な病院に“永遠の入院”をする人もいる。その光景は、人間の尊厳とはほど遠いものだ。 透析の入り口が片道4車線の高速道路だとすれば、出口は歩くことすら難しい畦道だ。生涯、続けなくてはならない医療がゆえに、終末期の問題は避けて通れないはず。それにも拘らず、患者の最期を支える環境がないという現実が、そこにはあった。 透析の中止によって引き起こされる症状は、尿毒症をはじめ多岐にわたる。体内の水分を除去できないことによってもたらされる苦痛は、「溺れるような苦しみ」とも言われ、筆舌に尽くしがたい。突然死でない限り、透析患者の死は酷い苦しみを伴う。当然、緩和ケアの必要性が問われるところだ。 しかし、日本の緩和ケアの対象は保険診療上、「がん患者」に限定されている。死が目前に差し迫る透析患者であっても、ホスピスに入ることもできない。患者も、家族も、緩和ケアの現場から見放されている。WHO(世界保健機関)は、病の種類を問わず、終末期のあらゆる患者に緩和ケアを受ける権利を説いているが、日本ではそうなっていない。世界的に見ても、異例の状態が続いている。 「がんで死ねるのは幸せだ」 日本の緩和ケアの現状を皮肉って、こんな本末転倒な言い回しがされることがある。ならば、「腎不全で死ぬのは不幸だ」ということになるだろうか。 透析大国と呼ばれるこの国で、声なき透析患者たちが苦しみに満ちた最期を迎え、家族が悲嘆にくれている。多くの関係者がその現実を知りながら、透析患者の死をタブー視し、長く沈黙に堕してきた。 なぜ、膨大に存在するはずの透析患者の終末期のデータが、死の臨床に生かされていないのか。なぜ、矛盾だらけの医療制度を誰も変えようとしないのか。医療とは、いったい誰のためのものなのか。 これまで私は、ノンフィクションの書き手は社会の黒子であるべきだと考えてきた。今こうして自分の体験を素材にして綴ることにも、大切な夫の苦しみを公にすることにも正直、躊躇している。 透析をいつ止めるのか、その後をどう看取ればいいのか──。私は当時、透析患者の終末期について必死に情報を探し求めた。しかし関連書籍は一冊も見当たらなかった。新聞や雑誌の記事にも何も出てこない。同じ環境に置かれた患者のブログやツイートも、必ず途中で消える。発信者が亡くなってしまうからだ。信じがたいことに、真に必要な情報は何ひとつ得ることが叶わなかった。情報収集を日常業務とする私でもそうならば、一般の透析患者や家族の置かれた環境は想像にかたくない。 長期透析の果てに死へと向かう患者や家族は、一日一日を必死に生き抜いている。重い決断を迫られ、孤立もしている。そんな人たちが必要とする本がこの世に存在しないのであれば、過酷な現実を提示することになっても、誰かが書かねばならない。そう自分を鼓舞し、遠ざけてきた記録と記憶をひも解くことにした。 本書は透析患者の、ことに終末期に生じる問題について、患者の家族の立場から思索を深め、国の医療政策に小さな一石を投じようとするものである。 本書の前半は極めて個人的な話になるが、私たちの透析をめぐる道のりを辿りたい。そこに記す血液検査の数値や飲水量、尿量などのデータは、夫が健やかに生きるための大切な羅針盤だった。さらに終末期の透析医療の現実についても、私が夫のそばでリアルタイムで綴った記録と病院のカルテとを突き合わせながら詳らかにする。これから透析をする可能性のある人、すでに透析を受けている人、腎臓移植をした人、透析を終える時期が見えてきた人、その家族や関係者に、ひとつの事例として参考にしてもらえたらと願う。 そして本書の後半では私たちの体験を踏み台に、終末期の透析患者をめぐる諸問題について重ねた取材をもって、今後のあるべき医療のかたちを展望したい。
堀川 惠子(ノンフィクション作家)