「駅前タワマン」計画目白押し 巨大ラビリンス化する東京は文明の頂上か、墓場か? 理念なき都市計画が生んだ「新しいタイプの世界都市」
なぜ東京という迷宮都市が誕生したのか
京都や札幌のように白紙計画的につくられた都市はほぼ完全に、大阪や名古屋のように戦国を制した大名の町割りによってつくられた都市は部分的に、東西南北に沿って碁盤目状に道路が形成されている。したがって街に住む人も「東へ行って」とか「南へ下って」とかいうのだが、東京で道を示すときに東西南北を口にする人はほとんどいない。この街には方位という概念がないのである。 徳川家康はきわめて実利的な男で、方位とか直角とかいう理念よりも、防御と経済の必要性を優先した。まず日比谷入江を埋め立てて商業地とし、街道網の起点たる日本橋を経済の中心とする。関ヶ原のあと、いわゆる「天下普請」によってつくられた江戸城の周囲の台地に各藩の大名を集めるのだが、親藩、譜代、外様という政治的な序列がそのまま内側から外側へというかたちで反映されている。そこに自然の河川と、運河と、堀割が水路網を形成する。つまり東京の立体迷宮性は、江戸の開府に端を発するといえよう。 明治維新により大名は国元に帰り、町人も離散し、いったん人口も減ったが、その後、中央集権近代国家の中心都市として、東京は拡大の一途をたどってきた。初めは東海道に沿って南から、また武蔵野が西欧風の住宅地となって西へと向かい、そして北へ、東へと発展する。江戸は、江戸城を起点として南、西、北、東と「の」の字型に発展したというのが『江と江戸城』を書いた内藤昌博士の考えだが、東京はそれを延長して「なると」型の発展をとげたといえる。また江戸城の中心性が皇居として継承されたので、東京は中心に大きな空虚を抱え、それがまた迷宮性を高めてもいる。 昭和になると、都心から郊外へとのびる民間鉄道が、その沿線を住宅地として開発し、山手線のターミナル駅である渋谷、新宿、池袋などが、生活消費のための百貨店を有するいわゆる副都心を形成して、近代的な巨大都市へと発展する。近代都市としての理念を感じさせる大規模な都市計画も、何度か試みられたが、常に「実情」が優先されて実現しなかった。つまり徳川家康に比べれば、近代の政治家は何もしなかったに等しいのだ。 しかし今、その実情優先主義が、不思議な迷宮性の魅力を生んでいるといえるのかもしれない。