「アユの妹」橋本環奈『おむすび』で思い出した、名前を消された「人気者のきょうだい」の苦しみ
お兄ちゃんなんていなくなればいい
4つ上の兄は、地元で“神童”と呼ばれ、もてはやされた時期があった。学校の成績は常にオール5で、中学時代に全国模試を受ければ常に10位に入っていた。運動会で走れば1位、学芸会では主役、学級委員や生徒会長、陸上部の部長をつとめ、作文を書けば国から賞をもらったこともあった。兄がそういった賞をもらうたびに賞状やトロフィーが飾られ、校舎には兄の名前の垂れ幕が掲げられた。知事などの政治家と握手を交わし、そのことが新聞記事として掲載されることも何度かあった。 佐々木家はいつのまにか、「タケシくんのうち」と呼ばれるようになり、私は「タケシくんの妹」となった。 しかし、私は兄のようにはいかなかった。 成績が伸び悩む私に「佐々木家は頭がいいはずなのに」「なんでお兄ちゃんはできるのにこの子はダメなのかしら」と母は口癖のようにつぶやいた。学校では教師から「なんで兄のように満点じゃないんだ!? わからないところは家でタケシにしっかり教えてもらってこい」と怒られた。中学入学時には「タケシが卒業して寂しかったけど、妹が入学してくるって、みんな楽しみにしていたんだぞ、期待しているぞ!」と何人もの教師からプレッシャーをかけられた。どこに行っても、何をしても私は「タケシの妹」でしかなかったのだ。 そのたび、私の心の中には、真っ黒い思いが浮かび上がった。「お兄ちゃんがいなきゃもっと生きやすいのに」「お兄ちゃんなんていなくなればいいのに」と……。
10歳でも理解できた、兄に夢中になる大人たち
今では信じられないような出来事もあった。 私が小学4年のある土曜日のことだった。ピンポンと玄関ベルが鳴った。2階の自室で宿題をしていると、母が部屋に来て「先生たちがみえたから、下に早く降りていらっしゃい」と告げた。 先生? 家庭訪問の時期でもないのに? と思いながら降りていくと、手土産を持った小学校の校長と私のクラスの担任がリビングのソファーに座っていた。母は「先生たちがお見えになったのだから、ご挨拶なさい」と私を促した。何がなんだかわからない状況に戸惑いながら、挨拶をしようとすると担任は私に「ああ、いい、いい。それよりお兄さん、タケシくんを早く呼んできなさい。校長先生がご挨拶にきているから」と言ったのだ。 このとき、兄は小学校を卒業し、中学生になっていた。卒業した小学校の先生は関係がないはずだ。実は兄はある作文コンクールで日本代表に選ばれ、その作文が国際コンクールに出品されることになっていた。彼らはそのお祝いで、兄に会いに来たらしい。兄がリビングに降りて行くと、校長と私の担任は待っていたとばかりに、「タケシくんは、地元の誇りだね! 先生たちも鼻が高いよ」と兄に夢中になっていた。 このときのなんとも言えない嫌な感じは今も鮮明に憶えている。私は10歳の子どもだったが、大人たちが兄に夢中になっていることは理解できた。そして、自分だけが部外者で蚊帳の外の人間であること、求められていない存在であることに気づいた。その事実は10歳の私には相当キツいもので、悔しさと寂しさが押し寄せ、自室で布団をかぶって泣いた。驚くべきことに、この小学校の校長と私の担任教師が兄に会いに来るという出来事は、その後も何度か展開された。2回目からは、自室に籠り私は彼らに挨拶をすることをやめた。