『夏の庭 The Friends』死にまつわる夏休みの観察日記
『夏の庭 The Friends』あらすじ
木山、河辺、山下の小6トリオは、祖母の葬式に出席した山下の話を聞き、「死」に興味を持ちはじめる。近所に住む一人暮らしのおじいさんがもうすぐ死にそうだ、と聞きつけた3人は、死を見届けるため家を張り込むことに。はじめは少年たちを追い返そうとしたおじいさんも、次第に彼らを受け入れ始める。あるとき、ひとりぼっちのおじいさんのために、3人はある計画を思いつく…。
死のリアリティを求めて
※本記事は物語の結末に触れているため、映画未見の方はご注意ください。 『雪の断章~情熱~』(85)、『夏の庭 The Friends』(94)、『あ、春』(98)。相米慎二監督がどれだけ意識的だったかは分からないが、彼の映画には春夏秋冬をタイトルに冠したものが多い。とりわけ『夏の庭 The Friends』は、岩井俊二や行定勲の作品にも参加した撮影監督・篠田昇によるカメラが、まばゆいばかりの緑と突き抜けるような青空で画面を覆う、夏色に染まった作品だ。 だがストーリー自体は、夏っぽい爽やかさとは程遠い。原作は、湯本香樹実による同名小説。神戸に住む小学生の木山(坂田直樹)・山下(牧野憲一)・河辺(王泰貴)の仲良し三人組は、祖母の葬式をきっかけにして、「⼈は死んだらどうなるのか?」という好奇心を抱くようになる。そこで彼らは死を間近で目撃しようと、一人暮らしの老人・喜八(三國連太郎)を見張ることに。この映画は、死にまつわる夏休みの観察日記なのである。 ハンガリーの心理学者ナギーの研究によれば、5歳未満の子供は死が理解できず、6歳~8歳になるとその現実感が増し、9歳~10歳で不可避であることを認識し始めるのだという。小学六年生(11~12歳)の木山たちもまた、いつか自分たちに死が訪れることを頭では分かっていても、いまひとつリアリティを感じることができない。それはあまりに曖昧で、抽象的で、形而上学的な概念だ。 橋の欄干を歩きながら、河辺は「俺な、この頃死んだ人のこととか、死んだらどうなるんやろっていうことばっかり考えとんねん。そんでも、全然信じられへんねんな」と皆に語りかける。道路に落下すれば即死、という状況。死のリアリティが希薄だからこそ、彼は生命を落としかねない場所に身を置く。死をそばに感じることで、皮膚感覚としてそれを刻み込もうとする。 木山が病院を探索していると、いつの間にか人の気配がなくなって、カーテンが風でゆらめいていたり、ピンポン玉がコンコンと跳ねていたり、黒沢清映画みたいなホラー調に激変するシークエンスも、死に対する漠然とした恐怖が具現化したものと言えるだろう(ちなみに黒沢清は、かつて相米慎二の『セーラー服と機関銃』(81)に助監督として参加していた)。 前作『お引越し』(93)で、小学生のレンコが生と死の狭間のような場所に導かれ、過去の自分と決別することで大人になったように、木山たちもまた死を通して心理的変容を遂げる。『夏の庭 The Friends』は、少年たちのイニシエーションの物語なのだ。