『夏の庭 The Friends』死にまつわる夏休みの観察日記
観察者から観察される者へ
後期・相米映画において重要な主題として挙げられるのが、<観察>。『お引越し』は子供の視点から両親を観察する映画であり、『あ、春』は大人の視点から父親を観察する映画だった。主人公たちは相手をしっかりと見つめ、己を顧みることで、古い皮膚を破り捨て、新しい自分に生まれ変わるのである。 かつて観察者の役割を担っていたのは、相米慎二自身だった。「役者たちと一緒に映画を生きたい」という気持ちがほとばしった『セーラー服と機関銃』や『ションベン・ライダー』(83)では、熱い想いが加熱した結果、ワンシーン・ワンカットの長回しや、役者のクローズアップをほとんど使わないような、エキセントリックな演出へと向かっていった。 だが90年代に入ると、その役割は劇中の登場人物へと仮託され、次第に観察映画としての骨格を形成するようになる。80年代のシネフィルを熱狂させた独特すぎるタッチは影を潜め、柔らかな筆致へと変貌を遂げていった。子供たちが老人を観察する『夏の庭 The Friends』は、後期・相米的主題が最も分かりやすいかたちで表現された一作と言えるだろう。 だがこの映画は、終盤に近づいていくにつれ、いささか奇妙な輪郭を帯びていく。老人が亡くなり、観察の対象を失った少年たち。その葬式にやってきた彼らと、老人の甥だと称する男(矢崎滋)との会話を、何故か別の少年がビデオカメラで撮影している。観察者として振る舞っていた木山たちは、突如として観察される者へと反転するのだ。 もうひとつ奇妙なショットがある。映画のラスト、木山たちは弔いとして井戸に蝶を投げ入れる。カメラはその様子を、まるで老人が死の深淵から彼らを見上げるかのように、井戸の底から捉えているのだ。ここでも少年たちは、観察される者として映し出されている。 小学六年生の彼らは、いつか訪れる死を現実のものとして受け止めることができなかった。死の意味を咀嚼できず、感情が未分化のままだった。だが老人の死を間近で目撃したことで、少年たちは感情を爆発させ、その死を悲しみ、故人をいとおしむ。彼らは観察者としての役割を終え、少年時代に終わりを告げた。観察者から観察される者へのポジション・チェンジは、木山たちが通過儀礼を経て大人になったことを示している。 死にまつわる夏休みの観察日記、『夏の庭 The Friends』。この映画は、後期・相米慎二映画の<観察>というテーマを、視点を反転させることで物語に推進力を与えている。それはそれでエキセントリックな演出。相米慎二はやっぱり相米慎二だ。 (*1)「シネアスト 相米慎二」キネマ旬報社 (*2)「相米慎二 最低な日々」ライスプレス 文:竹島ルイ 映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。 『夏の庭 The Friends 4Kリマスター版』 Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、新宿武蔵野館ほか全国順次公開中 配給:ビターズ・エンド ⓒ1994/2024讀賣テレビ放送株式会社 ⓒ1992湯本香樹実/新潮社
竹島ルイ