『夏の庭 The Friends』死にまつわる夏休みの観察日記
棒読みだけど、生々しい
古くは小津安二郎の『お早よう』(59)、小栗康平の『泥の河』(81)、最近では是枝裕和の『奇跡』(11)や『怪物』(23)など、子供を主役にした映画は数えきれない。映画監督はあらゆる手管を使って、少年・少女たちの繊細な演技を引き出し、かけがえのない瞬間を画面に焼き付けていく。 ところが『夏の庭 The Friends』は、木山・山下・河辺の芝居がとんでもなく一本調子。天才子役時代の芦田愛菜や鈴木福だったら、ありったけの感情を込めて大人顔負けの演技を披露したことだろう。だが、オーディションで選ばれたド素人三人組の演技は、台本に書かれたセリフを呪文のように唱えているように見える。 セリフ少なめの自然主義的なトーンであればまだOKなのかもしれないが、極めてフィクショナルな作劇かつセリフが隅々にまで横溢する本作において、この抑揚のなさ&メリハリのなさは異常事態だ。山下敦弘監督もインタビューでこんな発言をしている。 「相米さんの作品はどれも子供の演出が独特で、いわゆる子役芝居ではありません。子供はとてもセリフらしいセリフを喋っていますが、棒読みに近い。『夏の庭 The Friends』でも、びっくりするくらい棒読みです」(*1) 山下監督は、この棒読み芝居がある種の生々しさを獲得していると考察する。ひょっとしたらそれは、「芝居らしい芝居」「プロフェッショナルとしての演技」に近づけば近づくほど、リアリズムから離れ、虚構で塗り固められた現実っぽさが浮き彫りになっていくことへの、相米慎二なりの抵抗だったのかもしれない。かつて自分自身も経験した少年時代を直裁に描くことに対して、相米自身もその困難さを明かしている。 「いちばん描きやすいのは大人の女。大人の男は描きにくいけど、もしかしてこれからまた別の人生を自分が歩むかもしれないので、まだ嘘がつける。子供の男がもっとも描きにくい。自分が子供の男をかつて過ごしたから、思い切って嘘をつけないというか、映画の嘘に至らない」(*2) 少年たちの棒読み芝居は、実は映画にもうひとつの効果を与えている。一本調子であることで、彼らにとってまだ死のリアリティは希薄であるという、実感のなさ、感情の行き場のなさが表現できるからだ。山下監督の語る「棒読みだけど、生々しい」という独特の手触りは、「子供の男を描くことに嘘がつけない」という相米慎二の感性と、死を実感できない少年たちを描くというテーマによって、産み落とされたのである。