民意と乖離するメディアの「正しさ」―女川原発再稼働報道を考える
中国のプロパガンダを助長することにも
しかも最近の研究では、中国による処理水と汚染水を混同させるプロパガンダは、朝日新聞の報道が引き金になった状況が指摘されている。20年10月8日、朝日新聞が「処理済み汚染水」との造語を用いた報道の12日後、中国人民網はSNS(ツイッター)上で「処理済みの汚染水の海洋放出を決定するとの報道について」と朝日と同じ造語を初めて用いた。この時点まで、中国にはツイッター上で汚染水と処理水の混同や「処理済み汚染水」との造語を用いた発信は見られていなかった。 翌21年から、中国は「汚染水」プロパガンダを本格化させた。報道が中国によるプロパガンダにも影響を与え、輸入停止措置や日本人学校への投石など不利益の遠因となった可能性すら考えられるのではないか。 ところが、日本国内で「汚染」喧伝に加担した人々は、何ら社会的責任も問われていない。加害した側のマスメディアも、自分と仲間に不利となるような事実は(処理水の安全性報道がそうであったように)積極的に報じず、社会問題としてのアジェンダセッティングを避けようとする。
意図的か否かを問わず、外国勢力と足並みを揃え国益を損ねるプロパガンダに加担した政党や政治家もスキャンダル扱いされない。これはマスメディアが自らの掲げる「正しさ」と党派性、依怙贔屓に基づいて世論を形成し社会に影響を与えようとするものであり、客観的事実や民意よりもマスメディアの意向が優先されている状況を意味する。
メディアは民主主義を担う責任を
このように形成された世論が社会にもたらす影響は、過小評価されるべきではない。そもそも、民主主義社会においては国民一人ひとりが情報に基づいた判断を下し、責任をもって社会に参与することが求められる。しかし、メディアが「報道主権」のような独善的立場から「正しさ」を押し付け、客観性や中立性を失った報道を行えば、国民の判断が恣意的に導かれる危険性が高まる。 誘導された不安や世論は客観的事実を覆い隠し、合理的な意思決定の妨げとなる。たとえば最近行われた衆議院議員選挙でも、同じ不記載が特定の候補者では「裏金」と呼ばれ、別の政党の候補者は「不記載」とされた。選挙番組では、候補者に堂々と「裏金」マークまで付けられていた。これらは処理水の「汚染」プロパガンダと地続きの現象ではなかったか。 選挙も弾劾も資格も無いマスメディアの独善、何ら正当性を担保しない「正しさ」が主権者を煽動し、民主主義的な選挙で選ばれた政治家の生殺与奪すら左右してしまう。いわば「報治主義」とさえ呼べるこの状況を放置すれば、我々の社会は実態として事実・証拠主義と民主主義そのものさえ失ってしまいかねないだろう。
林 智裕