三上博史「若い頃は、どうしたらみんなが“げんなり”するかばかり考えていた」
── いえ、そんなことは……。 三上 これまでずっとサディスティックに活動をしてきて、若い頃は、どうしたらみんなが“げんなり”するかばかり考えていたんです、僕。 ── “げんなり”、ですか(笑)。 三上 そう、“げんなり”。20代の頃、ツアーライブで全国を回ったんです。映画が公開された直後ということもあって、お客さんは、音楽というより「見たい、会いたい」というノリだったんです。僕の音楽性なんてどうでもいいというのが、手に取るようにわかりました。なので、あえて素顔は白く塗って隠し、衣裳はタイツの股のところにこんもりしたパッドを装着したりして、とにかく、お客さんが“げんなり”するようなことばかり考えていたわけです(笑)。 ──(笑)。ちょっと拝見してみたい気もします。 三上 でも今はそうは思っていなくて、待ってくれている人たちのことを、ガッカリさせたくはありません。そして、そういった人たちが何を求めているのか、手に取るようにわかるので……。三上博史がヘドウィグの曲を歌う、というだけではみなさんは許さないだろうな、と。 なので、扮装はします。そして、扮装は進化しています(笑)。僕は演者の個性に合わせたそれぞれのヘドウィグがいていいと考えていて。まだ構想中ではありますが、今回はお芝居はないけれど、隣のキュートなお姉さんみたいな、ちょっと毒があって突き放しているんだけれど、まるでセーフティーネットのように、ものすごく温かい。ヘドウィグがそんな存在であることは届けたいですね。
僕は初演時から「これは痛い女の妄想話だ」と解釈している
── 本作は、ヘドウィグがライブステージを行うかたちで進行していきます。舞台版では、ヘドウィグは、MCで自分の人生を語りますが、お芝居のないライブ・バージョンはどうやって進行していくのでしょう? 気になります。 三上 そうなんですよ! それで、ジョン・キャメロン・ミッチェル(原作者)にメールをしてみたんです。今回ライブ・バージョンで上演するんだけど、20年経ってヘドウィグはどうなっていると思う? それをMCで語りたいんだけどって。そうしたら「アメリカ中西部かどこかの田舎町で、大学の客員教授かなんかになって、愛を教えてるんじゃない?」と返事が来たので、「すっげ~面白い! それをぜひ書いてよ」と返したら「時間がないんだ」と言われてしまって、その話はなくなりました(笑)。