満員電車に揺られ、文句も言わず働き続ける...日本人はなぜ“資本主義”が好きなのか?
気に入らないことがあるとすぐにデモを行うフランス人、文句を言わず働き続ける日本人――その差はなぜ生まれたのか? 保守×左派の異色対談を、『神なき時代の「終末論」』より紹介する。 「管理職の罰ゲーム化」が加速する日本の職場...その原因とは? ※本稿は、佐伯啓思著『神なき時代の「終末論」』から一部を抜粋・編集したものです。
日本とヨーロッパの自然観
【佐伯】僕は日本にはヨーロッパとまったく違う文化があったと思っています。違う考え方があったと思っているのです。 たとえば「自然」ということを考えてみると、やはりヨーロッパの自然の観念は、マルクスも物質代謝という言い方をしているように、自然というものを物質的にみているわけです。そこから人間に対して有益なもの、大事なもの、便利なものを引き出してくる。エネルギーの源泉として考えてしまう。それはギリシャの思考法にも通じますね。 たとえば、ここに木があるとします。木のなかに何か大事なものが埋まっていて、木を彫ることによって、そのなかから何かある製作物が生み出され、現れてくるというふうにギリシャ人はもともと考えていたのです。プラトンはそのギリシャ人の考え方を変えてしまった。人間の頭のなかにまず観念がある。こんなふうに作ろう、こんなふうに彫ってやろうとする観念です。 コップならコップのイメージがある。このイメージをもとにして材質にはたらきかけて、コップを作り出す。すると、ここにあるものは材質、マテリアルです。 マテリアルは物質で、そこから自然というものが単なる物質に変わってしまった。自然のなかに何か神的なもの、霊的なものが埋まっているという考え方がなくなって、単に人間が便利に扱える物質に変わってしまった。これは非常に大きな変化で、そこからヨーロッパには、デカルトなどの合理的科学も出てきます。 さらに科学技術の発想や産業発展という考え方も出てくる。自然を作り変えていけば、人間はそこから膨大なエネルギーを取り出すことができる、それが人間の幸せになるのではないか。これはやはり物質代謝です。こういう考え方が出てきてしまう。 ところが、日本人は必ずしも自然を物質的なものとは考えないのです。エネルギーが埋まっているものではなくて、自然のなかに神様がいたり、人間の感覚に訴えてくる根源的な生命力があったりする。こういうものを自然と考えた。すると、われわれには、簡単に自然をいじって自分の好きなように変えてしまうという発想が、もともとなかっただろうと思います。日本人のなかにそんな思想はなかった。 それがヨーロッパ、アメリカの影響で、近代になって、そうした発想に変わってしまった。ヨーロッパの近代を生み出した自然観の輸入により、どこかで自然観に大きな転換があった。しかし考えてみれば、自然も万物も全ては神が創った、そのうえで人間をその支配者にした、もしくは、人間が神に取って代わった。そういう近代思想はかなり特異なものですね。 その特異な思想をヨーロッパは生み出したから、これだけ巨大な文明を作り出したともいえます。そして、資本主義もそっくりそのなかに入って、その一番中心部に据わってしまった、と僕は考えたいのですよ。