イギリスで活躍した女性芸術家たちに刮目せよ!「Now You See Us: Women Artists in Britain 1520-1920」(テート・ブリテン)レポート(文:伊藤結希)
ロイヤル・アカデミーの誕生、疎外される女性と女性的な芸術表現
もっとも興味深いのがロイヤル・アカデミーに関するこのパート。同組織は、設立から2年後の1770年に新たなルールを策定する。これにより「ニードルワーク、造花、切り紙、貝細工、その他装飾的なもの」の展覧会出品が禁じられた。加えて、初代会長レイノルズは、細密画、パステル画、水彩画を劣った芸術ジャンルとして否定的に扱った。 実際、これらの軽んじられたジャンルは、道具を揃えるのが簡単で家庭で実践できることから、主に中流/上流階級の女性が楽しむ芸術として親しまれていた。しかしながら、これらの芸術をきっかけに同性のパトロンを得たり、プロのイラストレーターやデッサンの家庭教師など自身のキャリアを切り拓いた者も少なくなかった。ここでは、男性中心主義的な美術界から「排除された芸術」に注目する。 メアリー・ノウルズによる刺繍の肖像画。絵筆のタッチをスティッチで表現する新しい芸術ジャンル「ニードルペインティング」を極める。 ロイヤル・アカデミーの創立メンバーのうち、女性はアンジェリカ・カウフマンとメアリー・モーザーのふたりだけ。しかし、芸術ジャンルとして高尚な「歴史画」を油絵で描いたカウフマンに対して、「静物画」(特に花)を水彩で描いたモーザーの仕事はあまり知られていない。 メアリー・ガートサイドもまたロイヤルアカデミーに花の水彩画を出品した作家だ。彼女はゲーテの『色彩論』よりも早く、イギリスで初めて科学的な色彩理論を発表した研究家としての功績で再評価が進んでいる。あくまで教え子向けの水彩画ハウツー本という体裁で出版したため、彼女の理論はごく控えめに世に出ることとなった。
ヴィクトリア朝の女性たち
ヴィクトリア朝は万博の時代。万博での展示に加え、保守的なロイヤル・アカデミーの展覧会に対抗してオープンしたロンドンのグロヴナー・ギャラリーなど新たな発表の場も生まれた。ロイヤル・アカデミーに出品するには男性委員の推薦に頼るしか方法がなかった女性芸術家も公の場で発表するチャンスが格段に増え、商業美術市場のルートを開拓する者も現れる。 たとえば、軍事作戦や戦闘の情景を写実的に描くことを得意としたエリザベス・バトラー。慣習的に男性の主題とみなされていた戦争画だが、1874年のロイヤル・アカデミーの展覧会に本作を出品したバトラーはアカデミシャンから絶賛され、もっとも権威のある位置(オン・ザ・ライン)に飾られる快進撃をとげる。 対して、ヘンリエッタ・レイはロイヤル・アカデミーに裸婦像を出品し、大論争を巻き起こした。女性がヌードを描くことについて不道徳かつ下品だとけなす者もいれば、大胆で勇敢だと評価する者もいた。失われた作品も多く、この点がレイの業績の全貌を掴むのを困難にさせている。 レイは女性として初めてリヴァプールのウォーカー美術館の展示委員会の委員を務め、1897年のヴィクトリア朝時代展では女性美術部門のキュレーションを担当するなど、キュレーターとしての活躍も目覚ましかった。 高い評価を獲得した女性芸術家がいるいっぽうで、父親や夫の影に隠された者もいる。家庭的な題材を得意としたローラ・アルマ=タデマは、パリの万博展示で銀メダルを獲得したにもかかわらず、つねにローレンス・アルマ=タデマの妻としてみなされ、いまでも彼女の作品を目にできる機会は少ない。 ロイヤル・アカデミーが女性を人体デッサンのクラスから排除していたのは有名な逸話だが、この締め出しはじつに1893年まで続く。「女性の慎み深さを守るため」、「プロになれない(マチュア止まりの)女性に正規の教育は必要ない」など多くの理由から女性の排除は正当化された。訓練への平等なアクセスを達成しようと嘆願書を出すも、男性のみで構成された総会で否決される。 保守的なロイヤル・アカデミーはさておき、スレード美術学校のように1871年の設立当初から女性にも男性と同等の教育機会を与える革新的な美術学校や独自の美術学校を設立する女性芸術家が現れるのもこの時代だ。女性参政権運動(サフラジェット)の動きとともに、美術界でも女性たちはゆっくりと、だが確実に権利を手に入れてゆく。