タイラー・ザ・クリエイター『CHROMAKOPIA』全曲解説 2024年ヒップホップ最重要作を今こそ紐解く
矢野顕子のサンプリングも、晴れやかなムードが漂う終盤
それを経た「Balloon」では、ここまでの悩みが吹っ切れたように自分の道を行く決意を覗かせている。「なぜ一生懸命働くのか? ソウルの充実のためだ」「なぜ落ち着くことができないのか? 選択肢があるのが好きだからだ」などのラインは、タイラーが悩み抜いて出した答えだ。その前向きなリリックを後押しするようにルークの「I Wanna Rock」から「Don’t stop(止めるな)」という言葉を抜き出し、さらにダニエル・シーザーもそのフレーズを歌い上げる。そして、TDEの大型新人ドーチーが徐々にヒートアップしていく強烈なラップで、曲に前進するエネルギーを注いでいる。 また、ここで日本のリスナーとして注目したいのが矢野顕子の「ヨ・ロ・コ・ビ」のサンプリングだ。タイラーは以前にも2019年作『IGOR』収録の「GONE, GONE / THANK YOU」で山下達郎の「Fragile」を用いており、邦楽ネタの使用は今回で2度目だ。なお、西海岸ヒップホップという視点で見ると、ジェイ・ワーシーやXL・ミドルトンらが邦楽ネタ縛りの作品をリリースしている。近年ではアメリカのヒップホップ/R&Bで邦楽ネタが使われることも珍しくなくなってきたが、それでもタイラーのようなアーティストが継続して使うことは気になるトピックだ。タイラーはここでゴスペルの要素やノイズを加え、壮大でポジティブなム―ドに仕上げている。 ラストを飾る「I Hope You Find Your Way Home」は、コーラスにソランジュとダニエル・シーザー、キーボードにケヴィン・ケンドリックを迎えたネオソウル風味の美しい一曲。ここでは「ちっちゃな俺を手に入れるところだったが、まだ準備ができていなかった」「今のところ、育児は俺のウィッシュリストに入っていない」と父親にならない選択をしたことを明かしている。これは恐らく「Hey June」のストーリーの続きだろう。「俺は自己中心的すぎる」ともラップしているが、同じことを言っていても「Take Your Mask Off」とはまた異なる晴れやかな雰囲気が漂っている。また、ここではパリコレ参加のような実績の振り返りや、波に乗るだけの人への批判なども行っている。これらは自分の道を歩み続けることを決めた、タイラーの決意表明と繋がるものだ。そして、終盤にはボニータが「あなたのことを誇りに思う」「自分のことをやって輝き続けて」と涙ぐみながら話し、タイラーを後押ししている。その後キーボードソロを挟み、「St. Chroma」のフレーズをタイラーが再び歌ってアルバムは幕を閉じる。 * アルバムを通した主題となっているのは、自分らしさを貫いて自分の道を行くことの美しさと、その結果自己中心的になりすぎてしまって生まれる問題だ。これは初期のタイラーにはなかった視点で、33歳になった今だからこそ書けるテーマだろう。音楽的にはザ・ネプチューンズへの憧憬を軸にしつつ、ジャズやネオソウル、ゴスペルなどにも接近するようなものだった。また、いくつかの曲で聴けるGファンク的な要素であったり、ラトイヤ・ウィリアムスの起用やケンドリック・ラマーへの言及など西海岸ヒップホップとしての側面もこれまで以上に覗かせている。自分が育った地元のカルチャーを取り入れることは、自分の人生を振り返るようなトピックも多いこのアルバムに相応しいアプローチと言えるだろう。2024年のヒップホップはケンドリック・ラマーとマスタードが組んだ「Not Like Us」のビッグ・ヒットと先述した「The Pop Out: Ken & Friendss」、スヌープ・ドッグとドクター・ドレーの再タッグなど西海岸の話題に事欠かない年だった。タイラーのこれまでの歩みが詰まったこの傑作を、西海岸ヒップホップの年だった2024年のうちに楽しんでほしい。
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