技術屋が書いたベストセラー数学書――和算家・吉田光由(1598~1672)
技術屋だった光由
吉田光由が一族の中で頭角を現したのは、今も京都の北嵯峨に残る「菖蒲谷隧道(しょうぶだにずいどう)」の難工事を完成させたときである。この工事は、寛永元年(1624)から2年ごろに完成したとされているので、光由は27歳か28歳、『塵劫記』を出版する2年か3年前ということになる。 当時の北嵯峨一帯は水利が悪く、農民は干害に悩まされることが多かった。地元大覚寺から対策の要請があったが、当主の素庵は多忙で対応できない。そこで手を上げたのが光由だった。 光由は、これまで了以、素庵父子が実施してきた開削工事とは一味違う計画を立てる。ただ単に河川の開削をして水を引くのではなく、長尾山の北に人工の池を作り、傾斜のついた約200メートルのトンネルを掘って、たまった水を南側へ流すという、大胆かつ野心的な内容である。これまでとは比較にならないほど緻密な計算が必要とされるのは言うまでもない。 素庵の後押しによって計画は実行に移され、光由は、これを見事にやってのけた。菖蒲谷隧道工事の成功で名を上げた光由は、吉田家の三男という一門の中では傍流に過ぎない立場だったが、豪商・灰屋与兵衛の娘と縁組することになった。 さて、このエピソードからも分かるように、吉田光由は、純粋な数学者というよりも、むしろ有能な土木技術者であった。数学を理論として追究していたのではなく、土木工事などの実務に生かすスキルと考えており、今でいうと応用数学者タイプだったのである。 『塵劫記』がベストセラーになった要因も、そんな光由の実務志向にあるように思われる。本の構成を見ても、現代の数学の教科書のように最初から順番に読まなければ先へ進めないようにはなっていない。冒頭で、数やものの長さ、広さ、重さの数え方、九九とそろばんの使い方を教えた後は、実用的な問題とその解き方がひたすら続く。商人なら米や布の売買に関する問題、そして両替や利息の計算問題。土木工事を担当する武士なら面積や体積の計算問題、そして測量問題。高等数学を研究する人なら開平法(かいへいほう、平方根を求める方法)、開立法(かいりゅうほう、立方根を求める方法)といった具合だ。さらに、今でも知られているねずみ算や油分けの法、継子立(ままこだて)といった遊び心のある問題も含まれている。 どこから読み始めてもかまわない。自分の仕事に関係があるところだけ勉強すれば、すぐに役に立つ。合間に遊戯的な問題も楽しめる。わかりやすい挿絵もたくさん盛り込まれている。 理論重視の数学者では、なかなかこのような本は書けまい。実務志向の強い技術者だったからこそ、光由は『塵劫記』のようなベストセラーを生み出せたのだろう。