技術屋が書いたベストセラー数学書――和算家・吉田光由(1598~1672)
数学の学習過程
実用的でありかつ楽しい『塵劫記』だが、数学の知識がなければ書けるものではない。吉田光由は、どうやって数学を学んだのだろうか。実は、光由の育った時代は、その数学の学習そのものが始まったばかり、和算の歴史でいえば、まさに黎明期だった。 日本は古くから朝鮮を通して中国文化を取り入れていた。最も古い数学の伝来の記録は『日本書紀』の中に、欽明天皇15年(554)のときに百済(くだら)から暦博士(れきはかせ)が来日したとあるから、暦の計算方法として入ってきたのである。仏教の伝来とほぼ同時期だったこともあり、さまざまな専門書が輸入され、九九や算木(さんぎ)を用いた計算方法も入ってきた。が、その後千年余り、日本における数学の発達は、ほとんど見るべきものがない。 吉田光由が生まれた慶長3年(1598)は、文禄・慶長の役すなわち豊臣秀吉による朝鮮侵略が終わった年である。このとき多くの数学書が日本にもたらされたのが、皮肉にも数学の第二の伝来となった。 光由の嗣子・光玄が記録したとされる『角倉源流系図稿』によれば、光由の最初の数学の師は毛利重能(しげよし)である。 重能は、生没年は不詳だが、もともとは戦国時代の武将池田輝政の家臣で、故あって国を去ってからは京都二条京極あたりで「天下一割算指南之額」を出してそろばんを教えたとされている。そろばんの渡来は意外と遅く、室町時代末期といわれているから、重能はこの新しい計算道具の使い方を広めることに大きな貢献をした。入門する者は数え切れないほどで、光由もその一人だったことになる。 重能には、豊臣秀吉の家臣になって明へ留学したという説があるが、『塵劫記』が出る5年前に重能が書いた『割算書』の内容は、数学者によれば、奈良平安朝時代に伝わってきた数学の知識がベースになっていて、留学説は疑わしいとのことである。『割算書』は、分量的に『塵劫記』の三分の一にも満たない本で、光由はかなり早い時期に重能レベルの数学は卒業していたようだ。前述の『角倉源流系図稿』にも、光由は師の重能を追い越して、互いに教え合う関係になっていたことが書かれている。 続いて、角倉素庵から明の程大位(ていだいい)が出版した『算法統宗』を学んだとされている。これは中国の大ベストセラーであり、『塵劫記』の手本となった本である。明朝は、宋末から元初に確立された天元術(てんげんじゅつ、方程式を立てて未知数を求める方法)が忘れ去られるなど、高等数学が衰退した時代である。そのような中にあって、民間数学者の程大位は、各地をまわって数学を研究し、60歳のときに『算法統宗』を著した。田畑の面積計算、土石量などの土木計算、利息や税金の計算など、生活に密着した問題が多く扱われ、官吏の実務にも役立つ内容であった。しかも、難法歌といって、問題と解法がふしに合わせて歌えるように記述されていた。難法歌自体は『算法統宗』以前にもあった形式だが、語呂がよくて暗記しやすいので好評だった。『塵劫記』ほど挿絵は多くないが、その後も版を重ね、百年以上後の清朝になっても復刻版が出るなど、類似書は数十種にのぼっていたという。 なお、光由は、素庵だけでなく了以からも数学を習っていた形跡がある。たとえば、佐藤蔵太郎の『西国東郡誌』(大正3年刊)には、「光由は角倉了以の門弟にして、角倉は其宗家なり」と明記してある。また、『群馬県史 資料編十六巻 近世(八)』(昭和63年刊)の中の「慶応三年二月吉田流算術開平法口伝」に、吉田流算術元祖は京東山住吉田三好(三好は光好の間違いであり、了以のこと)で、元和3年(1617)3月10日、門人吉田七兵衛(七兵衛は光由の通称)へ伝授されたとある。了以は3年前に亡くなっているので、了以の興した吉田流算術は、素庵を介して光由へ伝授されたと考えられる。