技術屋が書いたベストセラー数学書――和算家・吉田光由(1598~1672)
名門・角倉一族に生まれて
『塵劫記』の著者は、豪商・角倉(すみのくら)一族に連なる吉田光由(みつよし)という人物である。 角倉一族は、さかのぼれば、宇多源氏(うだげんじ)に端を発する近江の武家である。その末裔が、京都嵯峨で土倉(どそう)と呼ばれる金融業を始めた。もとは吉田という姓であったが、朱印船貿易に進出した角倉了以(りょうい)の代から、屋号でもあった角倉を名乗るようになった。朱印状を受けた慶長8年(1603)以降、了以は安南(ベトナム)等との海外貿易で莫大な利益を得、角倉家を「茶屋」「後藤」「灰屋(はいや)」などと肩を並べる豪商に押し上げた。 金融業・貿易業で巨万の財をなした一族は、単なる成金ではなく、高い教養と志をもっていた。何といっても角倉了以・素庵父子の名前を不滅にしたのは、河川開削事業である。最初に取り組んだのが、大堰川(おおいがわ)(保津川)の開削だった。 京都嵐山にある大悲閣(だいひかく)千光寺には、素庵と親しかった林羅山(らざん)が撰(えら)んだ『河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘』が残されている。碑文の内容からは、相当の難工事だったことがうかがわれるが、海外から得た最新の土木工事の知識に、独自の工夫を加えながら開削を進め、慶長11年(1606)、わずか5ヶ月という短期間で舟運を可能にした。 この成功により、父子は幕府からも開削工事を命じられるようになる。いわば公共工事を請け負うようになったのである。急流で知られた富士川と天竜川の開削に取り組み、京都の鴨川水道の整備も完成させた。さらに父子は、私財を投じて、鴨川に並行する新しい運河の開削にも乗り出し、慶長19年(1614)、高瀬川を開通させる。 さて、吉田光由は、慶長3年(1598)、京都嵯峨で生まれた。このとき、角倉了以は45歳、素庵は28歳である。角倉家とは、光由の祖父が了以の従兄弟にあたるという関係であった。次々と大きな開削事業に挑む了以と素庵の姿を間近に眺めながら、一族の一人として、いつか自分も大きな事業を、と若い血を熱くたぎらせていたのではないだろうか。