【毎日書評】恐山の住職が説く、ポジティブにならなくていい「ニュートラルな生き方」とは?
ゴータマ・ブッダは、在りし日に「一切皆苦(いっさいかいく)」と言った。「一切」である。 人が生きていれば、喜怒哀楽が世の常であろう。その全部をひっくるめて、ブッダは「苦」と言うのだ。嬉しいことも、楽しいこともあるだろうが、それでも「苦」なのだ。私はここに共感して出家したのである。(「はじめに」より) 『苦しくて切ないすべての人たちへ』(南 直哉 著、新潮新書)の冒頭にはこう書かれています。その共感が、通奏低音のように本書には流れている気がするのだとも。 笑い話を笑ってすませ切れない、拗れた苦しさが残る。同時に、苦しいことの中に、何とかその意味を見出そうとする、滑稽な切なさがある。 この「苦しさ」と「切なさ」を共有してくれる人は、広い世間にはいるかもしれない。(「はじめに」より) 著者は青森県の恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県の霊泉寺住職である禅僧。曹洞宗大本山・永平寺で足かけ20年、その直後に東京で若い修行僧とともに修行して2年という修行生活を経て、2005年より恐山に入ったのだそうです。 ところで青森県下北半島の中心に位置する「霊場恐山」には、どこか恐ろしいイメージがあるかもしれません。なにしろ「霊」に「恐」。風景をなすものは火山岩であり、そこには女性霊媒師の「イタコ」さんが待っているのですから。 そのため「霊場恐山=幽霊の出る怖いところ」と感じたとしても不思議ではないはず。院代(住職の代理者)になる以前の著者も、恐山に対して似たような思いを抱いていたようです。しかし修行を重ねてきた結果、いまでは次のような思いに至ったといいます。 恐山で死者の実在を知って、私は「現実」と呼ばれるものの複雑さと多様さを、身に染みて思い知った。理屈で講釈していたことを「体解」した。 それは少なくとも、私が考え続けてきた「死」と「自己」の問題に、新しい地平を拓くものだった。(20ページより) そういう意味において恐山は師匠だったと述べている著者の記述のなかから、きょうは第五章「苦と死の正体」内の三「ゼロ思考──万事を休息せよ」に注目してみましょう。