【内田雅也の追球】11月11日は「村山記念日」 安芸キャンプで歴史の重要性をかみしめる
11月11日は村山実が阪神と入団契約を交わした日である。関大4年生だった1958(昭和33)年である。 昭和11年生まれの村山は「1」にこだわった。「1」が並ぶ日付に加え、背番号も「11」を背負った。「オレが1番、大阪で1番という強い気持ちだった」 そんな村山記念日、安芸市営球場(タイガース球場)にいると、村山が生きていたころの息吹を感じる。 三塁側スタンドを登ったところに、山を切り開いたスペースがある。周辺を緑の木々が覆っている。今は駐車場になっている。ここにはかつてブルペンがあった。 「タイガースの歴代の投手が汗を流した場所なんや。いや、汗だけでなく血もにじんでいる」 村山が2度目の監督として復帰した1988(昭和63)年1月、村山たっての希望で、この「山の中」にブルペンを移設した。当時は前年までマシン打撃練習場だった。 このキャンプ地には猛虎の歴史が詰まっている。阪神が初めてキャンプを張ったのが1965(昭和40)年2月。もう60年目になる。 阪神が来た65年に安芸市職員となり、85年に体育係長としてキャンプ担当となった森田修一(80)は安芸キャンプの生き字引である。 今もキャンプ中は連日、球場に通う。この日も三塁スタンド上段の指定席で眺めていた。 「田淵はあのレフト場外の崖までボンボン放り込んでいたなあ。江夏は山の向こうにある星神社まで走っていたよ」 田淵幸一の特大弾も江夏豊の往復12キロの山道ランニングも昨日のことのように話す。 阪神OB会長・川藤幸三は歴史の重要性を説く一人である。その川藤が監督・藤川球児への期待として「歴史を知る男」をあげている。本紙連載『球児にYELL』にあった。<ワシもタイガースの語り部として、歴史を伝えることが役目やと思っていた。球児は言いよった。「本当の阪神ファンは歴史をよく知っている。僕はまだ浅い。でもカワさんの後は僕に任せてください」。任せることのできる男や>。 昔があって今がある。先人がいて自分がいる。 藤川入団当時の記事を読み返せば「村山さんのような投手になりたい」と語っていた。阪神の監督として、大切なことである。 =敬称略= (編集委員)