「覚悟はありました。だからずっと電話が気になっていた」現役ドラフトでロッテ→西武移籍の平沢大河…苦しんだ“甲子園の星”を支えた言葉と「強い想い」
故郷で放った初ヒット
そして再び一軍昇格して迎えた8月17日のイーグルス戦。プロ24打席目で生まれた初ヒットは、故郷である宮城県での一打だった。18歳の若者は、一塁ベースを少し回ったところで表情を崩し、手を挙げて大歓声に応えた。 「正直、ホッとしました。本拠地のマリンで打ちたかったという思いもありましたが、宮城で打てたのは良かったと思います」 家族ら10人を試合に招待し、仙台育英時代のチームメートも駆け付けてくれていた。母と一緒にスタンドから応援していたリトルリーグ時代からのチームメートの父親が、その瞬間、涙を流したと後になって聞いた。プロの壁に戸惑い苦しんだ分、温かい眼差しに包まれた場所で記念すべき第一歩を踏み出すことが出来た幸せを、静かに感じていた。
秘めた被災地への思い
初本塁打も仙台の地で生まれた。プロ2年目の17年9月16日。大量ビハインドの展開の最終回に右翼席へと放った。のちにチームメートとなる小野郁投手から放った、平沢らしい低い弾道のアーチ。狙いすました思いきりの良い打撃が魅力の選手でもあることを再認識させるシーンだった。 被災地出身の選手として、責任感を秘めていた。東日本大震災を経験したのは13歳の時だ。自宅に津波の被害はなかったが、電気、ガスが止まった。小学校時代に野球をした思い出のグラウンドは津波に飲み込まれ、跡形もなくなっていた。当時所属していた中学野球チームの仲間たちも被害にあっていた。家が流されて避難を余儀なくされた選手、自宅が浸水して野球用具が使えなくなった選手。練習グラウンドに隣接をして仮設住宅が建った。チームは消滅寸前だった。
「野球、頑張ってね」の声に…
保護者たちは約1カ月、話し合いを続けた。「野球をやっている場合なのか」という意見も出たなかで、自宅を流された家庭の保護者が頭を下げた。「子供たちには野球を続けさせてあげて欲しい」。親として心からの思い。その一言で決まった。平沢も野球を続ける事が出来た。自分たちの気持ちを最優先してくれた大人たちの決断に、感謝の思いは絶えなかった。 「チーム全員、被災した方のためにという思いが強かった。震災前まではただ野球をやっている感じだったけど、野球をしたくても出来ない人がいる。あれから、そういう事を理解して自分の環境に感謝するようになった」 練習に向かうため、仮設住宅の前を通りかかると「野球、頑張ってね」と声をかけてもらった。自分よりも大変な思いをしている人からの言葉が、励みになった。平沢が所属していた中学野球チームはその年、夏の全国大会に出場。全国大会で悲願のチーム初勝利を挙げることができた。みんなの野球への想い、被災した人たちへの気持ちが、不思議な力を引き出してくれたように感じた。それは今まで味わった事のない感覚だった。だから、仙台育英高校に進学が決まった時も、東北のために、と甲子園優勝を目標に掲げた。
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