ひどい折檻を受けている哀れな遊女が駆け落ち…なぜか裁きを受けた「当事者ではない三人」
江戸時代にはどのような行為が犯罪とみなされ、裁かれていたのだろうか。 当時の恋愛沙汰の事案の一つに「駆け落ち」がある。 【画像】江戸時代の長崎では「大量の酒」が飲まれ、酒のつきあいが何より大事 現存する江戸時代の裁きの記録の一つ、長崎奉行所の「犯科帳」には、悲惨な境遇にあった遊女二人の駆け落ちについての記録が残されている。この事案で裁かれたのは、当事者だけでなく、意外な三人も含まれていた。 【本記事は、松尾晋一『江戸の犯罪録 長崎奉行「犯科帳」を読む』より抜粋・編集したものです。】
遊女二人の願いを聞いたばっかりに…
享保一七(1732)年三月一九日、油屋町の住人・太十郎は、丸山町のすぐ隣に当たる小島村の権右衛門方に、丸山町の遊女屋・藤屋定右衛門抱の遊女「みゆき」を呼び出した。また大村(現・長崎県大村市)からの旅人・理右衛門も、同人抱の遊女・恋橋を同所に呼んでいた。昨夏頃からこの男二人はたびたび会っていたようだが、二〇日の夜、彼らは遊女を連れて駆け落ちした。それを知った定右衛門が奉行所に訴え出た。 事情は奉行所から太十郎の住む油屋町の乙名(編集部注・町役人の職名)に知らされた。油屋町の乙名が理右衛門の宿町である勝山町の乙名に尋ねたところ、二四日、肥前小城(現・佐賀県小城市)で勝山町の追っ手に捕らえられたことが確認された。 旅人は止宿すると、止宿する町の乙名に届けを出さなければならなかった(『長崎代官所関係史料 金井八郎翁備考録一』一九三頁)。旅人の捜査にも宿町が責任を負ったので、理右衛門の捜索は勝山町が行ったのだった。町の治安は、こうした仕組みで守られていた。
「帰ったらどんな折檻にあうかわからない」と懇願
理右衛門は同二六日、長崎に連れ戻され奉行所で吟味された。そこで明らかになったのは以下である。 二〇日に遊女二人を留め置いた太十郎と理右衛門だが銀子の持ち合わせはなかった。そのため「みゆき」、恋橋の小袖一つずつを質物にして銀子と取り換え、揚代とした。 ところが「みゆき」は、主人が遊女に厳しく、衣類など質物に出して代わりを着ないで帰ったらどんな折檻にあうかわからない。すぐに銀子の用意ができないのであればこのまま帰ることはできないからどこへなりとでも連れていって、と太十郎に懇願した。太十郎はどこへも行く気持ちはないと答えたが、どんなに難儀で袖乞(乞食)することになってもかまわないので連れていってほしい、と「みゆき」に再度懇願された。 もしかすると「みゆき」は折檻を受けた経験があった、あるいはそうした状況を見たことがあったのかもしれない。安政六(一八五九)年の遊女の年季奉公人請状を見ると、無作法、不届きがあったならば、いかなる場合も説教したり、折檻したりしても構わないと書かれているので(「安政六年未二月廿八日付相定申書物之事」)、遊女本人もこうした請状の存在は知っていたに違いない。 太十郎は行先に心当たりはなかったが、致し方なく連れていく決断をした。理右衛門と恋橋も連れて権右衛門のところを出ると大村に行き、そこから小城に至ったところで二四日、先述のように勝山町の追っ手に捕まったのであった。