ひどい折檻を受けている哀れな遊女が駆け落ち…なぜか裁きを受けた「当事者ではない三人」
駆け落ちした男と遊女たちへの裁き
奉行は、今回の件は事前にたくらんだ事実もなく、遊女を盗んで連れ出したわけでもない。しかし銀子の持ち合わせがないのであれば、金を用意してすぐに返せばよいところを返さず、遊女たちの小袖を質物に入れ難儀させた。その上、遊女たちと逃亡したのは不届きだとした。しかし特別に許され、太十郎に過料として四貫目を命じ、「みゆき」の小袖質物で得た銀一〇匁九分を差し出させた。自業自得といえばそれまでだが、太十郎には高くついた。 理右衛門には恋橋の小袖質物で得られた一九匁五分を差し出させ、在所に帰り、今後、長崎に来てはならないと申し渡した。理右衛門は勝山町の中牟田伝太郎の小屋に居候しており、大村の杭出津村に兄がいた。そのため奉行所は身柄を勝山町の乙名・西郷吉郎右衛門に渡し、兄のところに送り届けるように指示している。長崎に滞在する者の掌握に各町の地役人が深くかかわっていることをこの事例から知ることができる。 さて、今の状態で帰ったら厳しく折檻にあうことも予想されることから、どんな苦労が待ち受けようと構わないので連れていってほしいと望んだ遊女二人はどうなったのだろうか。 奉行所は、計画性がなかったのはたしかにそのとおりだとしても、主人に叱られると予想できたのであればどんな理由があっても質入れしてはならなかったと、二人の行為は主人に背くものに他ならないとした。そして、年季の内での逃亡は不届きであり、本来、奴婢に落として定右衛門に与えるところだが、事情もあるので残りの年季を勤めるようにと、お咎めなしで定右衛門に引き渡した。
駆け落ち当事者以外の「意外な三人」への裁き
事件の当事者はこれら四人だが、それ以外の三人にも吟味があった。 まず、勝山町の八助。彼は理右衛門の勝山町での請け人であった。奉行所は、これまでも旅人の扱いについて怠ることのないようにと命じていたにもかかわらず、人柄などを見届けないまま、また町役人に許しも請わずに理右衛門を町内においたのは不届きであるとした。ただし今回は宥免とし、過料として五〇〇文のみを命じている。 もう一人は、丸山町の遊女屋・藤屋定右衛門である。これまでの事情を勘案するとある意味、被害者にも見えるが、夫婦とも日頃から抱の遊女への接し方が宜しくないとの風聞があったらしい。奉行所は、わずかな折檻は同業者もしているようだから許すが、こうした風聞があるので「みゆき」と恋橋を奴婢に落とすのではなく定めた年季のとおりにするようにと伝え、今後もし無理な折檻がなされたとの申し出があった場合は吟味すると申し渡した。 定右衛門の場合、明らかに度が過ぎた状況があったのだろう。長崎奉行が許せる折檻がどの程度のものなのか知りたいところだが、ともかく、度が過ぎると見なされた折檻は容認しないとする奉行のスタンスがここからは読み取れる。 最後の一人は、四人に宿を貸した小島村の権右衛門。捕まった四人は、権右衛門は今回の駆け落ちを知らなかったと自白している。だが奉行所は、遊女を呼ぶ者が宿を貸した者の中にいたならば、彼らが近所に出かけるだけであっても夜中には人をつけて把握しておくべきだとしている。そのため権右衛門が人をつけず、彼らを逃亡させた責任は免れないというのが奉行の認識であった。 すなわち宿の貸し手は外部からの旅行者の管理責任を、外出時も夜間にも負っていたということだ。江戸時代が今日とは異なる特殊な監視社会であったことが以上の事態からうかがえる。 最終的には権右衛門も今回は宥免とされ、四人が逃亡した翌日の二一日から長崎に連れ戻された二六日までの遊女の揚代六日分を差し出すようにと命じられるにとどまった(森永種夫編『長崎奉行所判決記録 犯科帳』(一)二七七~二七九頁)。
松尾 晋一(長崎県立大学教授)