陸奥宗光下で奴隷船から中国人救助 投機街では恩人の穴埋め 大江卓(上)
明治時代に政治家、社会事業家、実業家として活躍した大江卓(おおえたく)は、土佐(高知県)出身で、討幕運動に参加し、坂本竜馬や陸奥宗光、中岡慎太郎と知り合いました。 明治元年、神奈川県知事だった陸奥が、大江の外交手腕を高く評価して、県参事に起用。近代日本の警察制度を作るなど、陸奥の片腕となり活躍をしました。 政治から実業家へ、大江はどのようにして経済界で活躍するようになったのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
マリア・ルーズ号事件
大江卓の前半生で特筆に値するのは1872(明治5)年のマリア・ルーズ号事件である。当時、大江は陸奥宗光神奈川県令(県知事)のもとで権令(ごんれい。副知事)の職にあった。 6月1日、ペルー国籍のマ号(350トン)が帆柱をこわし修理のため横浜港に入港したのがことの発端である。入船7日目、船から逃れた中国人(木慶)の訴えで、この船が中国人労務者229人を乗せてペルーに向かう“奴隷船”と判明する。作家の三好徹は『叛骨の人』の中でこの時の大江の心中をこう描いている。 「中国人が奴隷に売られたからといって、自分には関係ない。そういってすましていることもできる。しかし、ペルー船の倉庫のようなところに押し込められている苦力(クーリー)は、土佐藩主と同じ船に乗り合わせたとき船首に追いやられたおれの姿と同じでないか。『よし、やる』。大江は自分に言った。熱い血が全身を駆けめぐるのを感じていた」 マ号に対する日本側の対応は真っ二つに割れた。外務卿(大臣)副島種臣と大江が人道上の見地と正義感 から日本で処理しようと主張、司法卿江藤新平、陸奥は国外問題に触れる必要はないと言い張る。結局、大江たちの意見が通り、大江みずから裁定することとする。 大江を裁判長とする特別法廷が開かれ、各国領事が出廷し、さながら国際法廷の趣があったが8月25日、大江が判決をくだした。 その要点は「中国人を残虐に扱ったことは法にそむいており船長の責任である。しかし、責任は追及しない。中国人は解放して、日本に住む中国人と同様の権利を持たせる」というものだった。 この判決に中国人たちは数万枚のビラをまき、数万発の爆竹を鳴らして祝福し、大江を賞賛した。真紅の朱子地(しゅすじ)に金糸で感謝の言葉を刺しゅうした旗を大江に贈った。