陸奥宗光下で奴隷船から中国人救助 投機街では恩人の穴埋め 大江卓(上)
後に東京株式取引所理事長に
大江は政治家、社会事業家、実業家の3つの顔を持つが、ここで取り上げるのは東京株式取引所(東株)の理事長として7年間にわたって草創期の株式市場の采配をふるった実績である。大江が日本を代表する投機街のドンとして収まるのは決して藪から棒の話ではない。 大江は岳父後藤象二郎とともに新橋駅頭で金融商社・蓬莱社を創立。秩禄公債の売買で大もうけした。また後藤が長崎の高島炭鉱の経営に失敗したときには大江が米市場で買い占めを図り岳父の開けた穴埋めに奮闘した。大江は投機街と無縁ではないし、深くかかわってきたといえよう。 「大江は後藤象二郎のために金策の衡に当たることになった。大江が米相場の大思惑をやるに至った動機はここに発する。陸奥宗光と協力して、紀州の三浦安から6万円の借金をしたり、蓬莱社と高島炭礦の整理に務めたが、二進も三進もいかない。……いろいろ目論んだ結果、大江はいよいよ米買い占めをやる」(東京日日新聞社編『財界ロマンス』) それは1876(明治9)年ころのことだ。新聞の外伝が欧州での米価騰貴を伝えていた。当時国内では米がだぶつき安値をつけていた。そこで大江はソロバンを弾く。日本の米をロンドンに運ぶと、1石(150キロ)当たり1円以上の純益が出る計算である。大江は懇意にしている横浜・英一番館のウイットと密議をこらす。そして3万石をロンドンに送ることとなる。大江は市場で米を買い集め、東京深川へ回し、汽船に積み込みを始めた段になって、武士の商法の悲しさ、斤量計算と枡目計算との間々大きな差異が出てきたことに気付く。予定の斤量(重量)を満たすには米が足りないことが判明する。 そこで質は悪くても目方のある米ということになって、当時南部米が目方があって安かったから盛んに南部米を買い込んだけれども間に合わない。坂本町に米市場があったころで、手当たり次第2万石余も買い占めた」(『財界ロマンス』) 米市場の相場師たちは買い占めの本尊を巡って侃々諤々、そのころ大相場師として市場に君臨していた「天下の糸平」は本尊が大江であることを突き止める。糸平と大江は神奈川権令時代から交遊があった。糸平は大江に面会を求める。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 大江卓(1847-1921)の横顔 1847(弘化4)年高知県出身、慶応3年東京に出て坂本龍馬、中岡慎太郎、陸奥宗光らを知る。明治新政府では伊藤博文のもとで働き、1872(明治5)年には陸奥の招きで神奈川県庁に入り、マリア・ルーズ号事件で名を上げる。1877(明治10)年西南戦争に際し、陸奥や林有造らと政府転覆を図り、禁固10年の刑に処せられる。岩手監獄で服役後、1884(同17)年仮出獄、郷里宿毛や北海道で新田開発に従事、1890(同23)年第1回総選挙に出馬、当選、1892(同25)年東京株式取引所頭取(1893<同26>年取引所法制定で理事長と呼称を変更し、初代理事長に就任。1898(同31)年まで7年にわたり采配をふるう。