1日20時間働き、原価100%の商品もあった…愛知の小さなパン屋が5年で「日本一売れるパン屋」になるまで
■日本トップクラスの売上になったが… そのときは原価計算もせず、原価率100%の商品もあったと言う。そうした他にはない商品が魅力となり、顧客が足を運び、さらに他の商品も購入してくれるというサイクルが回り、客数も売上も急速に拡大していく。原価計算など経営における課題は抱えていたままだったが、それでも田島氏は言う。 「独立を考える若い人には、40代や50代になってから知識や経験を持って独立するより、若いときに開業して寝ずにやる覚悟を持ってほしいと思っています。変に頭でっかちになるあまり、どこにでもあるパン屋になってしまって、中途半端に潰れていくお店をたくさん見てきました。だからこそ、気合と覚悟を持って開業してほしいと願っています」 会社の成長に伴い、経営の課題が浮き彫りになってきた。その1つが、顧客が増える一方で労働環境が改善されない状況だ。当時、一店舗当たりで年間売上が5~6億円あり、アルバイトを含め約100名が働いていた。店舗としては日本トップクラスの売上を誇るようになったが課題が見えてきた。 「夜中も厨房を稼働させるなど特殊なやり方をしていましたが、これでは長くは続けられないと思っていました。田舎の小さなパン屋さんとしては一度やり切ったので、今度は多店舗展開して全国においしいパンを広げようと考えました」 ■全国展開の第一歩は東京・銀座から そのため、田島氏は少しずつ現場から離れ、多店舗展開の戦略へと移っていく。当時、爆発的にヒットしていた「マジカルチョコリング」を中心に展開すれば、全国に広げられると考え、いきなり東京・銀座への出店を決意した。 「スターバックスやマクドナルドのようなブランドをパン屋で実現したいと思いました。彼らが日本進出の最初の店舗を銀座に開いたので、私たちも銀座でまず成功することを目標に出店することに決めたのです」 リーマンショックの影響もあり、相場より安く物件を借りることもできた。魅力的な商品も功を奏して知名度は広がり、瞬く間に売上が20億円にまで成長した。成長段階で大きな借入も経験することになったが、そこに躊躇はなかったと言う。田島氏がリスクを取って挑戦するスタイルは昔から変わらない。 「最初は手持ち資金を回しながら経営をしていましたが、会社に勢いをつけるために借入をしました。知識は付き過ぎると臆病になるもので、当時の私は若く失うものもなかったのでしょう。運も良く、生き残れたと思います」