漫才に格安塾経営、農業、仏教…M-1王者「笑い飯」哲夫さんが切り拓く「6足のわらじ」 一聞百見
哲夫さんも多忙な日々の合間を縫ってオーナーとして塾には時折顔を出す。「でかい顔していって生徒に『誰?』みたいな顔されたりね」といたずらっぽく笑うが、印象的な生徒の存在を尋ねると「うーん、いろいろな子がいますね」と思案顔。やがてふっと顔をほころばせ「コロナ禍に、芸人として笑いの処方箋を与えてくれてありがとう、と手紙を書いてくれた小学生がいたな」。学び舎(や)へ思いをはせる表情は柔和な先生の笑顔だった。
■大人気の博物館ネタに後日談
お笑い芸人と塾経営と聞くと一見、畑違いのようにも思えるが、学生時代は教員志望で、教育への思いは深いという。
奈良県の公立名門校・奈良高出身。「サッカー部が強く、ユニホームも格好良くてね。サッカーで女の子にモテようと猛勉強して」入ったが、残念ながらサッカー部での3年間はベンチを温め続けて終わった。
一方で、「友達との部活の帰り道にやる大喜利はずっとレギュラー。やっぱり俺、誰よりもオモロいよなって自覚はありました」と笑うが、そこからすぐにお笑い芸人を目指したわけではなかった。進学した関西学院大では教職課程を選び、塾講師や家庭教師のアルバイトにいそしんだ。
「人に教えることに喜びを感じて、教員になるつもりだったんです」
ところが、大学でも哲夫さんの話は友人らに大ウケだったそうで、「やっぱり俺はやばいくらいオモロい。これはもう職業にせなあかん」と自然な流れで、在学中にお笑い芸人の道へ進むことを決めた。
のちに相方となるのは西田幸治さん。コンビ結成前は互いに別のコンビを組んでいたが、時同じくして解散した者同士、組むことになった。2人とも「ボケ担当」で、ボケにボケで返す新しい漫才の形である「ダブルボケ」が生まれた。「オモロい芸人がいっぱい出てきていて、『もたもたしてられん、はよ西田と売れなあかんわ』という気持ちはありましたね」
コンビ結成翌年に始まった漫才日本一決定戦「M-1グランプリ」には、9回連続で決勝に進出。そんなM-1で笑い飯が披露したネタのなかでも、とりわけ人気が高かったのは、第3回大会で披露した「奈良県立歴史民俗博物館」。コンビ2人とも同郷で、学校遠足の定番コースだった「奈良県立民俗博物館」から着想を得たネタで、館内に展示された動く人形を巡り、入れ代わり立ち代わりボケの応酬が繰り広げられ、優勝は逃したものの、会場は大いに沸いた。