ベトナム料理店を開いたインドシナ難民 長期的な支援が不可欠と専門家【あなたの隣に住む「難民」⑧】
東京都心の日比谷公園に近い地下飲食街。ベトナム料理店「イエローバンブー」はサラリーマンらでにぎわう。新型コロナウイルス禍で経営は厳しいが、店主の南雅和さん(55)は「ここに人生を懸けている」と口元を引き締める。 急増外国人ウーバー配達員の危うい現状 コロナで追い風の裏側 21年
南さんは旧名ジャン・タイ・トゥアン・ビン。ベトナム戦争のさなか、南ベトナムの首都だったサイゴン(現ホーチミン)で生まれた。(共同通信編集委員=原真) 1975年、北ベトナム側が勝利し、全土が社会主義化された。南ベトナムの軍人だった父は母と共に行方不明になり、南さんは祖父母の元で暮らす。「教育は共産党の宣伝ばかり。南側出身者は学校でいじめられる。言いたいことも言えなかった」 自由を求め、14歳だった83年、母国を脱出した。全長約14メートルの船に105人がすし詰めになり、大海原を4日間さまよった末、日本船に救助される。「出発前は、死ぬか生きるか半々だと思っていた。運が良かった」 ベトナム、カンボジア、ラオスが社会主義に移行した後、このインドシナ3カ国から周辺国などへの難民が急増した。日本政府は78年の閣議了解で定住許可を決め、2005年までに約1万1千人を受け入れていく。 南さんは、インドシナ難民のために東京・品川に新設された国際救援センターで半年間、日本語教育や生活訓練を受けた。近くの工場で働き始めた時、教会関係者から奨学金を紹介され、日本の高校、大学に進む。建設会社に入り、ベトナムに駐在した。
▽日本語教育、半年では無理 「もともと料理が好きで、屋台を回ってレシピを教わった」。南さんは帰国後の2009年、「日本人向けにアレンジしてない、本当のベトナム料理」を出す店を開いた。 「幼い命を助けてくれたのが日本。第二の故郷として、この社会で生きていこうと、一生懸命頑張ってきた」と振り返る。 インドシナ難民受け入れをきっかけに、日本は1981年に難民条約に加入し、難民認定制度を整備。日本語教育など現在の難民支援策も、インドシナ難民向けの施策を継承している。 だが、南さんは「半年の日本語教育では、自立は無理」と断言する。「最後まで面倒見ないと、悪いことに走ったら、どうするのか。僕は日本国籍取ったけど、日本が難民に冷たいから、恥ずかしい」 インドシナ難民を調査する明治学院大の長谷部美佳准教授も、言葉ができないと、良い仕事に就けず、日本社会への統合が進まないと指摘する。 「政府は最初の半年は支援するが、後は民間のボランティアに丸投げしている。難民をはじめ、外国人をどう日本に定着させて戦力にしていくか、設計する法律や専門省庁が必要だ」と長谷部准教授。