「独立の立役者」大切なサッカー選手ラシッド・メクルーフィの訃報に触れて【ゲームの外側 第3回】
小社主催の「サッカー本大賞」では、4名の選考委員がその年に発売されたサッカー関連書(漫画をのぞく)を対象に受賞作品を選定。選考委員の一人でもあるフランス文化研究者、作家、文芸批評家の陣野俊史氏にサッカーにまつわるあれやこれやに思いを巡らせてもらう連載「ゲームの外側」第3回は、「ASサンテティエンヌのレジェンド」「植民地主義と闘った勝利者」、そして「独立の立役者」と称されるレジェンドについて。(文:陣野俊史)
●それでも彼はとても大切なサッカー選手だったと思う ラシッド・メクルーフィが11月8日、亡くなった。享年88。 ラシッド・メクルーフィの名前を記憶している人がこの国にどれくらいいるのかもわからないし、おそらくとても少ないだろうという予測くらいはしている。それでも彼はとても大切なサッカー選手だったと思う。 彼のことを語るためには、まずアルジェリアとフランスの間で起こった独立戦争のことを語る必要がある。1962年、アルジェリアは8年に及ぶ独立戦争を終えて、フランスから独立する。 この前後、アフリカ諸国は旧宗主国から独立を果たす国が多数あったけれど、アルジェリアの独立戦争ほどの惨事を経験した国は少なかった。 虐殺や爆発の記憶とともに語られる戦争の後半、1958年、アルジェリアを独立に導こうとしていた政党FLN(アルジェリア解放戦線)は、一計を案じる。 アルジェリアの独立性を世界にアピールするために、「国」を代表するサッカーチームを結成しようとするのだ。 こうして、アルジェリア「代表」チームのための選手が選出され、秘密裡に彼らを集合させる計画が進行する。そのなかには、当時、フランスリーグで活躍する複数のアルジェリア系選手も混じっていた。 ムスタファ・ジトゥニ、サイード・ブラヒミらに交じって、むろんラシッド・メクルーフィも、名誉あるアルジェリア「代表」チームのメンバーに抜擢されていた。 繰り返すが、彼らを集めチームを結成することは、ごくごく秘密のうちになされなければならない。この前後の出来事を記した印象的な一文がある。 1958年5月11日、サンテティエンヌは春の素晴らしい天気に恵まれていた。レ・ヴェール(ASサンテティエンヌの愛称、緑がシンボルカラーだった)に属するラシッド・メクルーフィは、街の目抜き通りをぶらぶらと降りていった。 市庁舎前の広場で二人の男が彼に声をかけてきたとき、まだ散歩の途中だった。彼のことを待ち受けているサポーターに接するようにして、彼は少しだけ微笑み、優しい言葉をかけようとした。 だが驚いたことに、彼に向けられていたのは親愛の情のこもった横断幕ではなかった。そこにいたのは、メクルーフィも知るサッカー選手だったのだ。モクタール・アティビとアブデルハミド・ケルマリ。 二人はメクルーフィを尊敬していた。二人はメクルーフィに、フランスを離れ、チュニスに皆で合流する旨を告げた。メクルーフィは何の説明も求めなかった。(中略)結論はすでに出ていた。 他の若者たちと同様、メクルーフィもリアルな政治意識を持っていたわけではない。(中略)自分は歴史の風にふかれるままだ、と思っていた。 土曜日の夜の試合のあとの再会を約束して、ケルマリとアティビは姿を消した。群衆に溶け込み、視界から消えた。何ごともなかったかのように、メクルーフィは散歩を続けた。(陣野俊史『ジダン研究』、カンゼン、2023年、293頁) このとき、メクルーフィはチュニスへの切符が片道しかないことをまだ知らない。FLNのチームは、こうして、まるでスパイ小説のようにして結成された。愛称は「独立のドリブラー」。 激怒したのは、フランスサッカー協会(FFF)だった。当然と言えば当然のことか。しかもこの年はワールドカップイヤーだった。本大会を目前にして、チームの大黒柱は姿を消した。 FFFはFIFAに提訴した。FLNのチームが対戦しようとする国には圧力をかけ、マッチメイクできないよう横やりを入れた。独立のドリブラーたちは根気強く対戦相手を探し、世界を転戦した。 東欧諸国やソ連、東アジアには、彼らの相手になってくれるナショナルチームが存在した。インドシナ代表との試合では、独立のドリブラーたちは圧倒した。 フランスからの独立を果たしていたインドシナの代表チームは、自分たちでさえフランスから独立を勝ち取ったのだから、そのチームに圧勝したFLNのチームは、きっと大丈夫、フランスに勝てる、と奇妙な太鼓判さえ押している。 結果的に3年半ものあいだ、独立のドリブラーたちは世界を相手に戦った。 アルジェリアの独立がはっきりと見通せるようになった1962年、チームは解散し、選手はバラバラになった。ラシッド・メクルーフィは、自分が以前所属していたチーム、ASサンテティエンヌに復帰する。 復帰第一戦は、スタンドもピッチも張り詰めた緊張感に支配されていた、という。誰がいつ、裏切者と叫んでもおかしくない状況下で、メクルーフィはテクニックを披露する。そして大歓声。 割れんばかりの拍手による歓待のなか、メクルーフィはレジェンドの名にふさわしい活躍をみせるのだった……。 彼の死を伝えるフランスの主要メディアには、こんな文言が躍っている。「ASサンテティエンヌのレジェンド」「植民地主義と闘った勝利者」、そして「独立の立役者」、ついに没す、と。 余計なことを書き足しておけば、メクルーフィがアルジェリアからやってきた移民系サッカー選手の第一世代だとすれば(戦前にもいただろうが、アルジェリアの独立以後、と限定)、ジネディーヌ・ジダンは第三世代、と捉えることができる。 いまも続く、卓越した才能を持つ、アルジェリア系フランス人の系譜の、いちばん最初のあたりに、ラシッド・メクルーフィの名前ははっきりと刻まれている。 (文:陣野俊史) 陣野俊史(じんの・としふみ) 1961年生まれ、長崎県長崎市出身。フランス文化研究者、作家、文芸批評家。サッカーに関する著書に、『フットボール・エクスプロージョン!』(白水社)、『フットボール都市論』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)、『ジダン研究』(カンゼン)、共訳書に『ジダン』(白水社)、『フーリガンの社会学』(文庫クセジュ)がある。その他のジャンルの著書に、『じゃがたら』『ヒップホップ・ジャパン』『渋さ知らズ』『フランス暴動』『ザ・ブルーハーツ』『テロルの伝説 桐山襲烈伝』『泥海』(以上、河出書房新社)、『戦争へ、文学へ』(集英社)、『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』(アプレミディ)など。