姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。
三条天皇と道長の意見の齟齬
大河ドラマ「光る君へ」41話では、寛弘八年(一〇一一)八月十一日、すでに寛弘三年(一〇〇六)に新造されていた内裏への遷御が行なわれた。一条天皇の四十九日正日に当たるこの日に行なわれた遷幸には、道長をはじめ公卿層は反対であった(『小右記』)。 また、行幸叙位をめぐって、道長と三条との間の意見の齟齬が表面化した。三条は、「これまでの事(一条の施政)は、私の与(あずか)り知るところではない」ということで、叙位を強行した(『御堂関白記』)。基本的に道長の意志を尊重してきた一条に比べて、新時代の三条の政治意思の積極的な発現は、道長や公卿層にも戸惑いを覚えさせたことであろう。 九月五日には東宮敦成(あつひら)親王の坊官除目(ぼうかんじもく、春宮坊〈とうぐうぼう〉の官人を任じる除目)が行なわれることになっていたが、実資(さねすけ)は、五日は重日(じゅうにち)の忌みがあるということを、密々に女房を介して三条に奏上させた。その結果、除目の延期が決定し、三条から実資に悦びの仰せが伝えられた。何故に実資がこのような密奏を行なったかというと、「しかるべきことを密々に奏上せよ」という仰せが、あらかじめ三条から実資に伝えられていたからであった(『小右記』)。 十二月十七日から始まった除目では、三条が蔵人頭に抜擢したばかりの娍子(せいし)の異母弟である通任(みちとう)を参議に上らせ、その後任として道長の三男である顕信(あきのぶ)を蔵人頭に補すことを、しきりに道長に指示したが、道長はそれを固辞した。「不覚(愚か)の者(通任)の替わりに、不足の職の者(顕信)を補される。きっと非難されることが有るであろう」というのが、道長が行成(ゆきなり)に語った背景である(『権記』)。道長の子息を側近として取り込みたい三条と、それを拒絶する道長との間の意見の齟齬が表面化したことになる。