姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
内裏に参った公卿は四人のみ
四月二十七日、娍子が皇后に立つ儀式と、中宮姸子が内裏に参入する儀式が同日に行なわれる日がやってきた。右大臣顕光(あきみつ)は「所労(しょろう、病悩)」を、内大臣公季(きんすえ)は「物忌(ものいみ)」を、それぞれ申して立后の儀に参入してこない。そこで実資の許に、参入せよとの三条の使者が送られた。実資は、「天に二つの日は無く、土に二つの主は無い。であるから巨害(きょがい、道長)を恐れることはない」と意気込んで参入したが、公卿たちや必要な官人は参入していなかった(『小右記』)。 一方、姸子の御在所である東三条第では、すでに道長主宰の饗宴が始まっていたが、実資が使者を遣わして、娍子立后の儀に参入するよう命じても、公卿たちは使者を前に召し出し、手を打って笑ったり、口々に嘲哢(ちょうろう)・罵辱(ばじょく)したりした。石を使者に投げつける者まで出てきた(『小右記』)。 内裏に参った公卿は、実資のほか、隆家(たかいえ)・懐平(かねひら)・通任の四人だけであった。立后宣命の草案を作り、道長に内覧してもらうために、内記を遣わして東三条第に持って行かせたが、道長は二度にわたって宣命の文言に難癖を付けて書き替えさせた。これは道長の嫌がらせではなく、宣命の不備を訂正して、三条の正式な后妃が姸子であることを確認するための指示であったと考えるべきである。
主宰する儀式への出欠を気にする道長
次に宮司除目(みやづかさじもく)が行なわれた。皇后宮大夫(こうごうぐうだいぶ)に隆家、皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)に娍子の異母兄の為任(ためとう)という布陣は、きわめて弱体であった。実資たちは内裏を退出し、娍子の御在所である為任宅に向かった。公卿はこの四人のみ、侍従や殿上人は一人も参らないという寂しい本宮(ほんぐう)の儀となり、形ばかりの饗宴を行なった(『小右記』)。 その頃、姸子は多くの公卿や殿上人を従えて、東三条第から内裏の飛香舎(ひぎょうしゃ)に参入した。道長の記したところによると、指名しておいて付き従った公卿は、藤原斉信(ただのぶ)・源俊賢(としかた)・藤原行成(ゆきなり)・藤原正光(まさみつ)・藤原実成(さねなり)・源頼定(よりさだ)の六人、指名していないのに付き従った公卿は、藤原頼通(よりみち)・藤原時光(ときみつ)・源経房(つねふさ)・藤原頼宗(よりむね)の四人であった(『御堂関白記』)。 興味深いのは、道長が指名しておいたのに参らなかった人として、実資・隆家・懐平の名を挙げ、それぞれに注を付けていることである。実資には、「『内裏に参っていた。天皇の召しによる』ということだ」、隆家には、「今日、新皇后(娍子)の皇后宮大夫に任じられた」、懐平には、「長年、私と相親しんでいる人であるのに、今日は来なかった。不審に思ったことは少なくなかった。思うところが有るのであろうか」というものである。 もともと自己の主宰する儀式への出欠を非常に気にする道長ではあったが、欠席した人に対する説明を記すというのは、きわめて異例のことである。娍子立后の儀の方に参入した四人も、「『実資・隆家・懐平・通任の四人』と云うことだ」とわざわざ実名で特記していることとあわせ(『御堂関白記』)、よほどこの儀式の出欠を気にしていたのであろう。 翌日、三条は実資に対する感謝の意を述べたうえで、つぎのような言葉を実資の養子である資平(すけひら)に伝えさせた(『小右記』)。 「自分は久しく東宮にあって、天下を統治してこなかった。今、たまたま皇位に登ったからには、自分の意に任せて政事(まつりごと)を行なうべきである。そうでなければ、愚頑(ぐがん)なことである。しかるべき時が至ったならば、大将(実資)に雑事を相談するようになるであろうことを、まずはこの事を大将に伝えておきなさい」 これは前回の恩詔(おんしょう)で依頼された単なる政務の相談という範囲を越えて、来たるべき政権に関するものであろう。娍子立后の翌日ということもあり、三条も実資に対する感謝の意があふれ出て、このような言葉となったのであろう。