姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
道長が関白を拒否した理由
三条天皇と道長との間では、道長の関白就任について交渉が繰り返されていたが、道長は、これを拒否し続けた(『御堂関白記』)。道長を関白として取り込みたい三条と、あくまで左大臣・内覧として太政官をも把握したいという道長との間の、政治抗争である。結局、このやりとりは三条が妥協し、八月二十三日に道長に内覧宣旨を下すことで決着した。
女御の地位に上がった娍子
同じ日、三条は姸子と娍子に女御宣旨を下した。すでに尚侍に任じられて従二位という高位を帯している姸子はともかく、長徳元年(九九五)に死去した大納言済時(なりとき)を父に持つだけの無位の娍子も女御の地位に上げるというのは、三条の強い意志が感じられる。翌年には、さらに信じられない要求が、三条から出されることになる。
清少納言を非難した紫式部の政治的感覚
よく知られた話であるが、『紫式部日記』には、紫式部が清少納言を批判した有名な箇所がある。これがどのような事情で『紫式部日記』に入り込んだのかは定かではない。 清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどくたりない点がたくさんあります。このように人より特別に勝(すぐ)れようと思い、またそうふるまいたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものですから、いつも風流ぶっていてそれが身についてしまった人は、まったく寂しくつまらないときでも、しみじみと感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしているうちに、しぜんとよくない浮薄な態度にもなるのでしょう。そういう浮薄なたちになってしまった人の行く末が、どうしてよいことがありましょう。 この評価は清少納言そのもののみに対するものではなく、『枕草子(まくらのそうし)』という作品を踏まえて行なわれたものである。紫式部と清少納言が直接顔を合わせる機会はなかったのである。 この記述は、寛弘六年(一〇〇九)正月の戴餅(いただきもちい)の儀における宰相の君・大納言の君・宣旨の君の容姿を述べ、ついでに女房たちの容姿について語り始め、消息文(しょうそくぶん)的部分に入っている。 その後、斎院選子(さいいんせんし)内親王の女房として中将(ちゅうじょう)の君(弟惟規〈のぶのり〉の愛人)に筆が飛ぶ。その連想で中将の君が惟規に宛てた書状に筆が及び、斎院女房への批判が続く。 そしてその対比として、中宮彰子方の雰囲気と、彰子の性格に筆が及ぶ。その後にいま一度、中将の君を非難したうえで、彰子方の女房として、和泉式部(いずみしきぶ)と赤染衛門(あかぞめえもん)に言及し、ついで清少納言に対する批判へと進むのである。 こう見ていくと、次々と脳裡に他の女房に対する批判が浮かんできて、ついには清少納言にまで筆が進んだと考えるべきであろう。中将の君に対する批判が高じ、「憎らしくもまた気の毒にも思われる」ということの連想で、実際に憎らしいと思っていて、『紫式部日記』執筆時には気の毒な状況に至っていた清少納言のことが自然に脳裡に浮かんできたのであろう(諸説話が語るほど清少納言が気の毒な状況にあったとは思わないが)。 そうなると、これが記されたのが、彰子から敦成(あつひら)・敦良(あつなが)親王が生まれて道長が敦康(あつやす)親王の後見を放棄し、一条の譲位と敦成の立太子がそろそろ政治日程に上り始めていた寛弘七年(一〇一〇)であることの意味は、大きなものがある。 清少納言を非難し、定子が遺した敦康への皇位継承を拒絶し、『枕草子』で謳歌されている定子サロンを否定することは、紫式部から知らず知らずににじみ出た政治的感覚であり、また彰子後宮の雰囲気でもあったのであろう(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。