姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
顕信出家の背景
長和元年(一〇一二)正月十六日、源明子(めいし)所生の道長三男である十九歳の顕信が、突然行願寺(ぎょうがんじ)に到り、皮聖行円(かわひじりぎょうえん)によって剃髪(ていはつ)し、比叡山(ひえいざん)の無動寺(むどうじ)に入って出家(しゅっけ)した。道長は、心神不覚(しんしんふかく)となった明子に接すると、みずからも不覚となっている(『御堂関白記』)。 顕信の出家の背景としては、前年暮れの蔵人頭就任をめぐる道長の対応が引き金となったのであろう。政治的に不遇な明子腹の顕信にとってみれば、やっとのことで出世の展望が開きかけた矢先に、父の道長によって、その道が閉ざされてしまったと思ったに違いない。
三条天皇が提案した「一帝二后」
42話では、姸子と娍子の立后が描かれる。長和元年二月十四日、道長二女の姸子(けんし)が中宮に立后した(『御堂関白記』)。 ところが三月に入ると、三条は娍子を皇后に立てて、一帝二后(いっていにこう)をふたたび現出させようという提案を行なった。いくら三条個人の寵愛が六人の皇子女を産んでいる娍子にあったにせよ、すでに十七年前に死去している大納言済時の女に過ぎず、後見も参議に任じたばかりの通任しかいない娍子を立后させるというのは、あまりに無理がある。 道長も、すぐに手を打った。娍子立后の日と決まった四月二十七日に、姸子を東三条第から娍子と入れ替わりに内裏に参入させることにした。姸子の内裏参入の前後に延々と饗宴がつづき、娍子立后の儀式に参列する公卿が少なくなることを狙ったのであろう。 それを知った三条が伝えさせた言葉というのは、「左大臣(道長)は、私(三条)に礼が無いことは、もっとも甚しい」「右大将(実資)は、私の味方であると言うべきである。しかるべき人を御前に召して雑事を相談することに、また何の不都合が有るだろうか」というものである(『小右記』)。ただ実資としても、道長との関係を悪化させている三条から頼りにされても、迷惑なところだったであろう。