姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
病悩を喜ぶ公卿
六月八日には、四月十日につづいてまたもや人魂(ひとだま)が土御門第から出、九日には鵄(とび)が鼠の死骸を道長の眼前に落とし、十日には蛇が堂上に落ち、十七日には本心が無いような状態となり、天命を保つのは、やはり難しいとされた。そして、「為任が陰陽師(おんみょうじ)五人に道長を呪詛(じゅそ)させている」との落書(らくしょ、権力者や社会に対する批判や風刺を含んだ匿名の文書〈もんじょ〉)が、道長の許に寄せられた。実資は、「相府(しょうふ、道長)は一生の間に、このような事が、断絶することなく起こる。事に坐す者は、いつもの事である。悲嘆するだけである」と記している(『小右記』)。 六月二十日、資平が聞いた噂として、実資に伝えたところでは、道長の病悩を喜悦(きえつ)している公卿が五人いて、それは道綱(みちつな)・実資・隆家・懐平・通任とのことであった。道長からは、「そのような噂は、(隆家を除いて)信用していない」との報が実資の許に二十八日に届いているし、七月二十一日にも道長は、「道綱と実資については(噂を)信用していない」と語っている(『小右記』)。兄の伊周(これちか)とは違って、隆家は公卿たちからも好かれていたはずであるが、どのような思いでこのように語ったのであろうか。 これらの怪異(かいい)が娍子立后の後に一挙に噴出していることに注目すべきであろう。なお、収められたままでいた道長の辞表は、七月八日に至って、ようやく勅答(ちょくとう)とともに返却された(『御堂関白記』『小右記』)。
道長の宇治別業
道長の宇治別業(うじのべつぎょう)は、源融(とおる)から源重信(しげのぶ)へと伝領され、道長が長徳四年(九九八)に重信未亡人から購入したものである。道長はたびたびここで遊宴を催しており、後にこれを伝領した頼通は、末法(まっぽう)の世に入った永承七年(一〇五二)、敷地内に平等院(びょうどういん)を建立した。 長保元年(九九九)以来、長保五年、寛弘元年(一〇〇四)、寛弘七年、長和二年(一〇一三)、長和三年、長和四年、寛仁元年(一〇一七)、寛仁二年、治安三年(一〇二三)と、宇治別業に遊覧して作文会(さくもんかい)や和歌会(わかかい)を催したほか、奈良や木幡(こはた)との往復の際には、ここで饗宴を開いている。これらの遊覧によって、文化はもちろんのこと、交通や流通の発展に寄与することとなったのである。
倉本 一宏