姸子と娍子どちらの儀式に参加すべきか…三条天皇と道長の対立を時代考証が解説!
取り次ぎ女房としての紫式部
紫式部の職務は続いた。道長と三条の関係が悪化し、皇太后となった彰子の政治的役割が増加した。三条は実資を頼りとしたのであるが、実資は紫式部を彰子との間の取り次ぎ役として使ったのである。 長和元年五月二十八日、実資は枇杷殿(びわどの)に彰子を訪れ、「女房」に促されて近く伺候し、一条(いちじょう)院を懐旧して落涙した(『小右記』)。私はこの「女房」は紫式部と考えている。 直接的に紫式部の名が見えるのは、『小右記』の長和二年五月二十五日条である。五月十八日から東宮敦成親王が重く病悩していたが、実資は養子の資平を彰子の許に遣わして病状を密々に探らせているのである。資平に病状を語った女房こそ、「越後守為時(ためとき)の女(むすめ)」、つまり紫式部であった。実資は、「この女を介して、前々も雑事を(彰子に)啓上させていた」と注記しているが、紫式部は聞かれてもいない道長の病悩についても資平に語っている。よほどの信頼関係と見るべきであろう。 前々から取り次ぎに使っていたとなると、この記事の前後に実資と彰子の間を取り次いでいた「女房」も、紫式部であった可能性が高い(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
道長の重い病
道長は五月二十三日、比叡山に登って顕信の受戒(じゅかい)の儀に参列したが、その際、法師によって放言(ほうごん)され、投石を受けた。僧が叫んだ言葉は、「ここは檀那院(だんないん)だぞ、下馬所(げばしょ)だぞ。大臣や公卿は物の道理(どうり)は知らない者か」「前々は、馬に騎(の)って山に登ることは、まったくなかった。たとえ大臣や公卿であっても、髪を執って引きずり落とせ」というものであった(『小右記』)。 このことも影響したのか、道長は月末から重く病悩し、邪気(じゃき、物怪〈もののけ〉)が現われたほか、「頭が痛いことは、破れ割れるようである」という状態となり、六月四日に道長は内覧と左大臣の辞表(じひょう)を奏上(そうじょう)した(『小右記』)。 しかし、三条は四日の第一度の上表(じょうひょう)に際しては、すぐにこれを返却しているものの、八日の第二度の上表については、これをすぐに返却することはなかった。九日には、道長は実資に対し、「命を惜しむものではないが、一条を喪った彰子のことだけが気がかりである」と、涙ながらに語るなどの弱気を見せている(『小右記』)。このまま辞表が返却されないと、本当に辞任しなければならないということになる。