1年で辞めた相棒…監督夫人に「やっていられない」 選手の前で公開説教、自由なきID野球
伊勢孝夫氏は野村克也監督の下で6年間、打撃コーチを務めた
元ヤクルト打撃コーチの伊勢孝夫氏(野球評論家)は、野村克也監督の下で“ID野球”を徹底的に学んだ。データを作り、データを活用し、相手の配球パターンなども研究した。現役時代も含めて、それまでは全く考えてもいなかった世界だったが、毎日の積み重ねで頭を使う野球に自然とのめりこんでいった。しかしながら、野村監督からはよく厳しい言葉をもらったそうで「そう言われないように勉強しなければいけなかった」と言う。 【写真】幼き頃の沙亜也さんを抱き笑顔を見せる野村克也さん ヤクルトは1990年から野村体制となった。前年(1989年)の関根潤三監督時代に2軍打撃コーチでヤクルトに復帰していた伊勢氏は1軍打撃コーチを命じられた。野村監督と南海時代からつながりが深い高畠康真打撃コーチとの2人体制だった。1年目はセ・リーグ5位に終わったが、2年目(1991年)は3位、3年目(1992年)はリーグ優勝、4年目(1993年)はリーグ優勝&日本一と“ID野球”を浸透させ、階段を上がっていった。 「でも、高畠さんは最初の1年で抜けてしまったんですよね」と伊勢氏は何とも言えない表情で話し、こう続けた。「ある遠征中に高畠さんと話をして『何でやめるんですか。ワシと一緒にやるのは嫌なんですか』って聞いたんですよ。そしたら『いや、違う。ノムさんの女房(沙知代夫人)がうるさくてやっていられないんだよ。お前も残るんだったら、気をつけろよ』って。私は(沙知代夫人から)言われたことはその後も1回もなかったんですけどね」。 伊勢氏は1990年から1995年までの6年間、ヤクルト打撃コーチを務めた。1年目は高畠コーチと2人、2年目は渡辺進コーチと2人、3年目は1人、4年目、5年目は若松勉コーチと2人、6年目は再び1人でこなしたが、その間は沙知代夫人を気にすることはなく、野村監督との“闘い”の日々でもあった。「キャンプのミーティングでノムさんがホワイトボードに書いたことを3年間はノートに書き写しました。大学ノートが2冊半くらいになりましたね」。