『マクラーレンF1 GTR(ル・マン/1997~1998年編)』迫るライバルに対抗したロングテール【忘れがたき銘車たち】
モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1997~1998年のル・マン24時間レースを戦った『マクラーレンF1 GTR』です。 【写真】1997年のル・マン24時間レースを戦ったガルフ・チーム・ダビドフ・マクラーレンの39号車。レイ・ベルム、アンドリュー・ギルバート-スコット、関谷正徳がステアリングを握った。 * * * * * * 2023年に初開催から100周年という節目の年を迎えた伝統の耐久レース『ル・マン24時間レース』。そのル・マンでは、ハイパーカー(LMH)やLMDhと呼ばれるマシンたちが鎬を削って総合優勝を目指し争っている。 それから遡ることおおよそ30年ほど前、1990年代中盤から後半にル・マンでは“GT1”と呼ばれたカテゴリーのマシンが主流となっていた。今回は、その時代のル・マンを戦った『マクラーレンF1 GTR』というGT1マシンのお話だ。 “GT1”というのは、例えばフェラーリF40やポルシェ911など、当時の量産GTカーをベースに仕立てられたレーシングカー。GT1では、原則として、レーシングカーとは別に市販車として25台以上量産されている車両に対し、レース参加のための車両公認、いわゆるホモロゲーションが与えられる規程であった。 しかし、ル・マンを主催するACOは、公道を走れるロードカーを1台だけ作れば車両公認を与えていた。当初こそル・マンだけのローカルルールだったものの、1997年にFIA GT選手権にも導入。そのため、“量産”とは名ばかりのスペシャルマシンたちが続々と生まれて競争が過激化し、最終的にはカテゴリー消滅となった経緯を持つ。 ル・マンでは、それまで主流だったグループCカーの参戦台数が世界選手権の消滅などで激減したことも助け、1993年にGTカーのクラスが復活。翌1994年にはGT1というクラスが設けられて、総合優勝もそのGT1に属するマシンが飾っている。そのため、GT1が本当に主役となったのは1995年とも言えるだろう。 1994年のル・マンを制したダウアー962LMは、ポルシェ962CというグループCカーをほぼそのままGTカーとしたマシンだった。故にGTカーとは名ばかりであったし、この年はグループCカーが性能調整を課せられながら走ることができたのだ。 来たる1995年のル・マン。GT1時代の本格幕開けとなったこの1戦は、早速主役に躍り出たGT1マシンが制した。そして、優勝したこそがマクラーレンF1 GTRだった。 マクラーレンF1 GTRは、F1で名を馳せたデザイナー“ゴードン・マレー”が手がけ、1993年に誕生したスーパーカー『マクラーレンF1』をベースに開発されたレーシングカーである。 市販車としてのマクラーレンF1自体は、そもそもレース参戦を目指して開発された車両ではなかった。だが、ユーザーからの声に応えるかたちで、マレーが中心となってレーシングバージョンである『GTR』を開発した。 すると前述の通り、ル・マン初陣であった1995年のレースを制覇。そればかりか総合3、4、5位を占めるほどの活躍を見せた。 この結果を見てライバルは黙っている訳もなく、1996年にはライバルのポルシェが『911 GT1』というレース参戦を見越して開発したGT1マシンを投入。1997年にはメルセデス・ベンツが同様の方針で開発した『CLK-GTR』という車両をGT1マシンで競われていたFIA GT選手権に送り込むことを決定。敵がニューマシンを開発するなかで、マクラーレンF1 GTRの戦闘力アップも急務となっていた。 そこで1997年に向けて、マクラーレンF1 GTRに大きなモディファイが加えられた。 1996年までのマクラーレンF1 GTRは、前後オーバーハングが短いことによって生じるダウンフォース不足が問題だとされていた。それに対応するかたちで、フロントのオーバーハングを延長するとともに、リヤのロングテール化も敢行した。加えてダックテールのスポイラーに大型のリヤウイングを備えて、ダウンフォースを得ながら抵抗を減らすスタイリングへと大変貌を遂げた。 同時に軽量化も進行。BMW製の6.0リッターV型12気筒エンジンだけで25kgも軽くするなど、車両全体で100kgものダイエットに成功したのだった。 こうして誕生した1997年モデルのマクラーレンF1 GTRは、BMWワークス体制での参戦となった2台を含む、計6台が1997年のル・マンを戦うことになった。 総合優勝こそポルシェのオープンプロトタイプカーに奪われたものの、ガルフチームの1台が総合2位でフィニッシュ。BMWチームの1台も総合3位に入り、表彰台の一角を占めてみせた。また、同年のFIA GT選手権でもメルセデスのCLK-GTRには敗れたが、5勝を挙げてチームランキング2位を獲得。ポルシェを上回ることには成功した。 しかし、翌1998年にマクラーレンF1 GTRは劣勢に立たされることになってしまう。この年のル・マンにはトヨタのTS020が初登場したほか、ポルシェ911 GT1が最新モデルに進化するなど、さらにGT1マシンの競争が激化した年だった。 そんな年でありながら、大きなアップデートもなく、参戦規模も縮小されたマクラーレンF1 GTRは苦戦を強いられてしまう。予選ではトップから15秒遅れのベストタイムを記録するのが精一杯で、総合23、24位と下位グリッドに沈んでしまった。 そして、迎えた決勝。マクラーレンF1 GTRは思わぬ好走を見せる。ライバルがトラブルなどで脱落、後退する中で信頼性の高さを武器に24時間を戦い抜き、トップから8周遅れながらも総合4位でチェッカーを受けた。 この年を最後にル・マンからGT1というカテゴリー名が消滅。翌1999年もGT1に相当するカテゴリーは設けられたものの、マクラーレンF1 GTRもル・マンからは姿を消したのであった。 [オートスポーツweb 2024年10月30日]