『べらぼう』蔦屋重三郎の「ほんとうの評価」とは?47年の生涯をたどる略年譜
2025年大河ドラマ「べらぼう」 が取り上げる蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)。歌麿や写楽を広めた人、というのが現代の一般的な評価だ。だが、その評価で彼は満足するだろうか。彼の仕事をていねいにたどることで、彼の発想と、それが当時の社会にもたらしたものを見極めることができるのではないか。47年の生涯を略年譜で概観する。(JBpress) ※本稿は『別冊太陽 蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(鈴木俊幸監修、平凡社)より一部抜粋・再編集したものです。 【表】蔦屋重三郎はどんなことをした?47年の生涯の略年譜 (鈴木俊幸:中央大学文学部教授) ■ 歌麿、写楽の評価が高まったから蔦重が評価された? 蔦屋重三郎という人物をどのように評価すべきか。 フランスのエドモン・ド・ゴンクールは歌麿にぞっこんであった。19世紀末のヨーロッパで歌麿蒐集熱が高まる。その熱愛ぶりが伝わった日本でも歌麿評価が高まっていく。当然その絵の市場価値もその評価と連動することになる。 歌麿も寛政前期までは、ほぼ蔦重専属の絵師であった。また歌麿が画筆を揮(ふる)った『画本虫撰(えほんむしえらみ)』をはじめとする美麗な狂歌絵本の数々も蔦重版である。 20世紀初頭、ドイツのユリウス・クルトが写楽を高く評価したことは有名である。その評価がまっすぐ受け入れられて、日本でも写楽に注目が集まるようになった。そして写楽についての詮索が始まるとともに、写楽絵を出版した蔦屋重三郎にも捜査の手が及び始める。 歌麿や写楽を世に出したすごい版元として蔦重は評価されることになっていくのである。その「すごい」は、歌麿や写楽が海外で評価の高い(高値が付く)、すなわち日本が誇るすごい浮世絵師二人であるというところに発している。
近代ヨーロッパの価値観によるアートとしての浮世絵評価、アーティストとしての浮世絵師評価に由来しているわけである。蔦重を含めて当時の人間にとってはまるでピンとこない褒められ方であろう(でも、こういったわかりやすい評価の仕方はいまだに続いている)。 ■ 草紙は果たして教科書に載るようなものなのか? 安永・天明期の戯作や狂歌など時代の先端を行く文芸の成立に関与し、それらを出版していったことをもって蔦重を評価することにも、上記の例と似たような違和感を覚える。 たとえば、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)の『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』や恋川春町の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』の蔦重版黄表紙2作は高校の日本史教科書にも松平定信による出版統制の好事例として書名が載っている。「統制」がこの2作に及んだという事実は無いのであるが。 また山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうわきのかばやき)』の書名も戯作の代表作として文学史の教科書に載っていたりする。どれも当時の感覚から言えば、たかが青本(黄表紙)、粗末な絵本にすぎないもの、なぜそれを未来の子どもたちは覚えさせられるのか、当時の人間が知ったら不思議がるはずである。 文化・文政期頃から、ちょっと昔の江戸の草紙類を蒐集する趣味が広がる。蒐集家向けの珍書商売も始まる。現存品の多くは彼らが蒐集することによって散逸せずに済んだものである。彼ら好事家が編年体の目録を編んでいく中で、草双紙は整理され「研究」されていった。 そして彼らの成果がそのまま文学史に継承されることになって、黄表紙は近世小説の一類として位置付けられることになる。小説は文学である。日本近代において価値あるもの、高校教科書に書名が載っても不思議はないことになる。 いっぽう、同様の草紙類は上方でも制作されていた。ところが、これらを蒐集するマニアが現れないまま近代を迎えた。結果、散逸してしまったなりに文学史には一切登場しない。これらは文学ではないことになった。変な話である。上記の文芸書出版に関わる蔦重評価にも近代的価値観と歪んだなりの常識とが紛れ込んでいることを否定できないのではないだろうか。
もっと別の褒め方で蔦屋重三郎を評価してやるべきだと思う。もし当時の人々の耳に入っても賛同してもらえるような褒め方。彼の仕事を丁寧にたどって、その時その時の彼の発想と、当時の社会とその歴史に彼の発想がもたらしたものを見極めたところで相応の褒め方を思いつくはずである。 蔦屋重三郎 略年譜
鈴木 俊幸